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Posted by 滋賀咲くブログ at

2013年12月07日   日野町散策7


前回からの続きです。

日野町の散策も、もう終わりです。

最後は、出雲川のほとりにある神社でシメる予定でした。



近江にも出雲があるのですねー
出雲の民は、ここ近江へ入植してきたということでしょう。
それが綿向山からだとすると鈴鹿の方からということになるのでしょうか。
近江から鈴鹿を越え、その先にあるのは、街道から考えるとおそらく伊勢ではないか?
と想像します。

伊勢というと、どうしても天照大御神の伊勢神宮をまず思い浮かべますが、
実は、伊勢一宮椿大神社の祭神、猿田彦大神の地でもあります。
猿田彦大神は、出雲神だとも考えられています。


で、これが出雲川です。


小さな川ですが、古代には重要な川だったのでしょうね。

その川べりに鎮座している椎植神社にお参りしました。


御祭神は、武三熊大人命

武三熊大人命は、多賀大社の曽孫、即ち伊勢大神宮の孫であり、綿向神社の天穂日命の子で、西の宮天夷鳥命の弟に当ります。

ここの祭神は知らなかったのですが、綿向の天穂日命の子で、先にお参りした西ノ宮の神とも家族だったので、最後に来れて良かったです。
神社名に惹かれてきたのですが、意味がありましたね。



神武天皇の時代、紀元前656年に出雲の国より綿向大明神の御神霊を奉じて来れた彦健忍雄心命が井戸のある当地で休まれた所で、此の地に命の祖先神で当地の御祭神の御神霊を出雲国より御奉祀された御宮であり、当初は仕居大明神ととなえ欽明天皇6年に綿向山頂の大嵩神社と共に、この地の井戸の上に社殿が造営された。




また、土地整備で消失した伊室神社の棟札は、ここの社殿に移し納められています。
その伊室神社は、日野祭に使える神稚児三人が祭神です。
その三柱とは、
彦健忍雄心命、前出の出雲国より天穂日命を供奉して綿向山へお祀りした神。
健骭宿禰、出雲国の大社の大宮司家の国造家より来て、出雲家を名乗った中興の神。
出雲宿禰貞尚、南北朝時代の大宮司。出雲系統としては最後の宮司。
ということです。




いかに出雲との関わりが深いかわかりますね。

椎植神社は、さほど広い神社ではありませんが、由緒ある神社でした。



さて、随分と歩きました。
駅までちょっと離れてしまいましたね。
でも、最後の力を振り絞って駅まで歩きましょう。


大体の見当をつけて駅の方角へ田んぼの間を歩きました。
しならくすると駅につながる道に当たりました。
近くに、神社が見えましたが、もうお腹一杯という感じです。
そこは八幡神社でしたが、もう椎植神社でシメたので立ち寄りませんでした。


もう少し歩くと、また道沿いに神社がありました。
前を通るので、表示板だけ見ると・・・



鈴休神社 (スズヤミ)

鈴休(スズヤミ)とは、変わった名だな・・・と思いつつ祭神を見てびっくりしました!

御祭神は阿須波神、 波日岐神 です。
この二柱は、坐摩五柱の神のうちの二神です。
坐摩巫祭神と呼ばれるこの五柱は、宮中にも祀られている重要な神様です。

そして、ある見方では、この二柱は、古代の神アラハバキとの関わりがあると感じさせてくれます。
アラハバキ神は、東北で多く見られるものの関西では見られません。
これは、縄文時代に信仰された神が、都に近い近畿では、全て抹殺されたと考えられています。
ただ、その神になんらかの形を変えて信仰は残っていると思われ、
そのカギに阿須波神、 波日岐神 が関わっているという話なのです。

もし、そうなら、この鈴休神社は、抹殺された近畿のアラハバキ信仰の名残である可能性を感じさせてくれるものですが・・・
さて、どうでしょう?

ということで、最後の最後にとんでもない神社に出遭ってしまったかも。
とお参りすることにしました。

7世紀、飛鳥から大津京へと都を遷した天智天皇がさらに美しい都を求めて、この地へ来られ馬を休めたところが社地になったと伝えられているようです。

アラハバキとの関わりは当然わかりませんが、7世紀、天智天皇の時代の創建だそうです。
これも埋没神だとされている瀬織津姫を封じていった時代の先駆けだと言えるかもしれません。

ただ、ここには弥生時代から霊泉を持つ信仰の地だったようなので、水の神様を祀っていた可能性はありますね。
因みに、阿須波神は、福井県の足羽神社の神でもあるように、足、すなわち旅の神だともされているようですので、
天智天皇が旅の途中で休まれた故事に因んでの祭神という可能性もあります。

さらっと、お参りしました。


これが霊泉でしょうか・・・



ここを出ると、駅までもう少しです。
駅付近には、こんな観光マップの看板が目につきました。


で、ちょっと驚いたのは、
鈴休神社から、真っ直ぐ東に行くと、この散策の最初のお参りの地、比都佐神社があります。
そこには、
この地に天智天皇が遷都を定めていたと書かれています。

もしかすると日野に都が出来ていた可能性があったのです。
今や、開かれた地だとは言えない地域ですが、
古代は、重要な地であったわけで、天智時代以前の一大都市だったのかもしれませんね。


そんな日野の駅に戻ると、次の電車まで1時間も間がありました。
時刻表を調べていたのですが、鈴休神社でロスしたようです。
しかし、これも仕方がありません。
時間を埋めるため駅前の観光案内書で、ガイドさんにいろいろと話しを聞かせてもらいました。
そうこう40分ほどすると、ガイドさんが、
あのバスに乗ったら近江八幡駅まで直通ですよ。と教えられ、
これは願ってもないと、御礼を言ってバスに飛び乗りました。

日野~近江八幡間の道中も、気になる神社がいくつか車窓から見えました。
バスの旅も良いかもしれません。


今回は、予想以上の濃い散策となりました。
いろいろと想像力を刺激されました。
この地の神々に感謝しつつ、
旅の疲れを癒すべく、僕は酒場へ向いました。


             おわり



Posted by 柚子木琴火 at 11:30Comments(1)街歩き

2013年11月30日   日野町散策6


前回からの続きです。

馬見岡綿向神社を後にして、道を来た方向へ戻ります。

駅からみると綿向神社の方角へは、随分歩いたことになります。
3、4km位ありますかね。。。

とりあえず松尾公園なる、松尾の名がついた地域があるので行ってみます。

松尾神といえば、秦氏の信仰する神で、山王日吉の神です。
大概、松尾の名を見ると山王関係の神社があるのですが、
公園の回りにそれを見つけることはできませんでした。


足もかなり疲れています。
そろそろ散策も終盤です。
あとに2、3の神社を巡って終わる予定でした。

次の神社へ向い歩きました。
遠くに綿向山が見えます。

近くには、川が流れています。
実は、この川を見るのも今回の目的の一つでした。

この川の名は、後ほど明記します。


そうこうするうちに、次の神社へ着いたと思って、
名を確認すると・・・

あれ・・・井林神社

僕の目指していた神社ではありませんでした。
でも、この神社こそが、山王社だったのです。



御祭神、瓊々杵尊

『明治以前は山王権現と称していたが、明治なりその地の小字名を以て、井林神社と改称された。社伝によるとこの地が天台勢力化にあった永正年間の頃、日吉山王の神を分祀したものとされている。』

日吉大社より勧請したのに祭神は、瓊々杵尊 です。
どうやらこの辺りが日野町の秘密のような気がします。
いわゆる天孫族の移ってきた地なんではないでしょうか?
前にも書きましたが、日吉大社にも瓊々杵尊は祀られていますが、
大概、日吉大社から、山王の神を勧請するなら、大山咋神か、その妻神の玉依姫なのです。
または、十禅師=瓊々杵尊とみる仏教解釈の影響とみることもできますが、それでも天台の守護神、山王神を主にしても良いように思います。

それは、そうと中々、感じの良い神社でした。


手水舎の前で地図を確認していると、
先にお参りされていた若い女性が二人、降りてこられ挨拶をしてくださいました。
最近、女性のグループがお参りされている姿を良く見かけるようになりました。
なんとなく、親近感を感じますね。

挨拶を交わした後、僕も階段を登りお参りしました。

この神社の横には、一つの祠があります。


世神社というようです。


椀造りの木地師や塗師が、木地師の祖、惟喬親王を信仰していました。


さて、お目当ての神社を目指しましょう。

その前に正明寺に着いてしまいました。


『聖徳太子の創建と伝えられており、その昔比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えていましたが、戦国時代の戦火を受けて消失しました。江戸時代に入り再興された時は、永源寺の高僧一絲文守大和尚の尽力によって後水尾天皇の勅建寺となり、黄檗禅の中本山としての寺格を備え、数多くの名僧をこのお寺から輩出しました。』

立派なお寺ですが、時間がないので、チラ見だけ。
門から手を合わせて、次へ急ぎます。


少し迷いながら見つけました。

勝長神社です。


御祭神
天火明命、瓊々杵尊

詳しくは書きませんが、僕の仮説というか妄想の範囲なのですが、
この地域は、 天火明命を祖とする氏族も関わっているように思います。
ただ、もう少しいろいろと考える余地はあるのですが・・・
天火明命を祭神とする神社を見つけられて良かったです。

『創祀年代不詳。天正年間に焼失しその後復興している。享保3年の祝詞に山王大権現とある。境内に草が生えないことより無草祀とも称する。』




広くない神社なので、サラリとお参りして、
そろそろ、最後のシメです。

駅の方角を目指しながら歩きました。


              つづく




Posted by 柚子木琴火 at 11:26Comments(0)街歩き

2013年11月24日   日野町散策5


前回からの続きです。

馬見岡綿向神社へ向う道を歩いていると、
笠懸の宮というのがありました。

日野祭りの準備完了の印としてここに御幣が掲げられるそうです。
また、昔、ここで流鏑馬の奉納があり、この宮に標的の笠が掲げられたという話しもあるようです。

ここは、昔、松林だったようです。



『戦国の世の英雄、蒲生氏郷が幼少の頃遊んだとされる若松の森。氏郷の転封先である会津黒川はこの森の名前をとり、会津若松(現・福島県会津若松市)に改名している。』そうです。

もう綿向神社は、そこです。
しかし、ただならぬ雰囲気を持った神社ですね。



注連縄をくぐると、真っ直ぐの参道。


そして鳥居があります。


鳥居を潜ると石橋がかかげてあります。


僕は、その横を通りました。


馬見岡綿向神社です。
御祭神は
天穂日命(あめのほひのみこと)
天夷烏命(あめのひなどりのみこと) 
武三熊大人命( たけみくまうしのみこと) 

出雲の神です。

『社伝に神武天皇の時、彦健忍雄心命が出雲国より天穂日命に供奉し来り綿向山に鎮祀した。

欽明天皇6年、蒲生稲置三磨山部連羽咋に託宣ありて創めて祠を造営す。

天武天皇12年、篠谷川厩上の地に奉遷す。

此地に天夷鳥命の祠がありて合せて祀る。更に延暦15年現在の地に遷座する。延喜式神明帳に祀する馬見岡神社の論社である。』滋賀県神社庁HPより)



神武天皇の時代にこの地へ出雲から人々が移ってきたということでしょうか。

よく神社で見かける神馬ですが、
龍化(化龍?)と掲げられています。

馬の最高位が龍だとされていますからね。

さて、本殿へお参りです。
石畳を通ります。


本殿の右横に白猪の像があります。


欽明天皇6年(545年)蒲生稲置三麿と山部連羽咋が綿向山で狩の途中、吹雪により立ち往生しました。
その折に大きな猪の足跡に導かれ山頂まで辿り着くと、
そこに綿向大神の化身となって白髪の老人が現れ、
この山の頂に祠を建てるよう御託宣を受け社殿を建てたということです。



山の神が猪(綿向山神の使い)だということ、これは伊吹山の神にも共通しますね。
そして、それが綿向大神だということは、天穂日命だと考えて良いでしょうかね。
また、それが白髪の老人というのは、白髪大神または白髭明神を思い出します。


境内には他に沢山の神様が祀られています。
くわしくは、こちらのサイトを参照してください。


本殿の横に榊御前社
御祭神は勾々廼馳命(くくのちのみこと)





本殿の石畳の参道の両サイドに向かい合ってあるのは、
左に、村井御前社
御祭神は、置目老媼命(おきめおうなのみこと)



『老媼(おうな)は沙々貴山君(ささきやまのきみ)の祖 韓袋宿禰(からふくろのすくね)の妹で、 23代顕宗(けんそう)天皇が御即位(485)の後、御父市邊押盤皇子(いちのべのおしはのおおじ)が蒲生野へ狩に来られ殺害された葬処を探しお尋ねになられた時、置目という者がその場所を申し奉り、天皇は来田綿(きたわた)の蚊屋野(かやの)に行幸され、御骨を掘り出し改めておまつりされた。

この置目はその功績により宮中に召しかかええられた。その後、宮中を辞する時、日野渓の地を給わりこの地に閑居した。逝去の後、里人等尊敬して祠をたてて祀った。古くは現在の綿向神社の森を「置目の森(おきめのもり)」と称し、村井御前は綿向大明神 の地主の神といわれている。』



この向かいに、八幡宮
御祭神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后



池之社、出雲神社
御祭神、市杵島姫命、瑞津姫命、田心姫命、大己貴神





琴平神社
御祭神、大物主命荒魂
と、
神明神社
御祭神、天照大御神荒魂







神明神社は、『寛政 7年(1795)2月11日村井本町の住民、信仰に依って勧請する。』
とありますが、天照大御神荒魂と書いてありますので、
もしかすると当時の住民の信仰は、瀬織津姫の可能性もありそうですね。


天満宮(北野神社)
御祭神、菅原道實公






竃之社
御祭神、火結命、奥津彦命、奥津姫命
と、
稲置三麿神社
御祭神、蒲生稲置三麿(がもうのいなぎみまろ)
と、
玉椿神社
御祭神、山部連羽咋(やまべのむらじはくい)



富士浅間神社
御祭神、木花咲耶姫命



安平稲荷神社
御祭神、稲倉魂命



まだあります。
鳥居から出た参道脇には、
蛭子神社
御祭神、事代主命、蛭子命





あと少し、見落としていた神社や撮影しなかった神社もありますが、すべては、先ほどのサイトを参照してください。


そろそろ綿向神社も後にします。
いやー、良い神社でした。
民の信仰と蒲生家の庇護、それに日野商人の財力が重なった社です。

多分、これが綿向山ですかね?


因みに、綿向山の標高は1110mで、
標高に因んで、毎年11月10日が綿向山の日に指定され登山客で賑わうようです。
山道は、整備され初心者でも登れる山だそうです。
但し、信仰の山で聖地だということは忘れないでおきたいですね。


さて、僕はもう少し日野の散策を続けます。


         つづく





Posted by 柚子木琴火 at 14:36Comments(0)街歩き

2013年11月23日   日野町散策4


前回からの続きです。

ささやかな昼食を終えてから、
次に向うは、おそらく今回の最大の目的地、馬見岡綿向神社です。
でも、少し距離があるので、ブラブラ散策しながら向います。

途中、地図で確認した西之宮神社へ寄りました。



御祭神は天夷烏命
綿向神社の祭神三柱のうちの一柱で、
綿向神社の真西に位置しています。関係あるようですね。

『蒲生旧趾考に「今大木の杉二株あり古の神官出雲氏上野田村より此処迄上りて獄を遙拝有し所なりと云う』



境内はわりと広いですが、シンプルです。

拝殿


その後ろに本殿です。



ここから、少し街中を歩いてみることにしました。
そうすると、

日野椀・・・
かつて日野商人は、これを売り歩いていたようです。
その製作は途絶えてしまったのですが、
復元されているようです。

この表示と共に


麦から育てるパン屋さん
いいですね!
こういうの凄くそそられます!

でも、今回はスルーしました。


歩いていると、近くに若草清水なる場所があるそうな・・・
湧水ハンターとしては、是非行ってみたいと思いました。


蒲生氏郷は、利休七哲の一人でもあり、
彼は、この水でお茶をたてたということです。



この地蔵堂の下に水が湧いています。



めっちゃいいですね!
カニがおりました。
なので、ちょっと飲む気はしなかったので、
巡礼の友のパワーストーンの付いたペンダントを浸けてやりました。

この清水のすぐ近くに蒲生家の菩提寺があります。


信楽院です。

ちょっと入ってみました。


本堂です。


信楽院の名の由来はこちらです。



天平時代に信楽に聖武天皇が勅願所として建てられたお寺の仏さまを蒲生高秀公が、ここに勧請したようです。

サラリとお参りして、お寺を出ました。


歩いていると直ぐに、和菓子屋があります。


ちょっと覗いてみて美味しいそうなので買っちゃいました。



このお店の前に滝の宮があります。
道から階段を下ったところです。





綿向神社の末社だそうです。
境内に滝があることから、滝之宮神社と呼ばれています。
御祭神は、滝の神か水の神かと思いましたが、
後で調べてみると、
御祭神は、須佐之男命でした。
『夏越祓の地であった。当初は河原に在りて河原宮と称した。』

多分、元は、河原の水神を祀っていたと考えられますが、
夏越の祓の地であったために、祓の女神から、夏越の須佐之男命に変わったのではないか?
と想像できます。

これがその滝です。



ここまでくるともう綿向神社はすぐのようです。


迷うことなく、そちらを目指しました。


            つづく










Posted by 柚子木琴火 at 15:15Comments(0)街歩き

2013年11月16日   日野町散策3


前回からの続きです。

山王宮と伊勢道との別れ目から山王宮へ向いました。

山王宮こと日枝神社の前には、慈眼院なるお寺が建っております。

とりあえず、今はスルーして神社へ



結構立派な神社です。



階段の上には山王鳥居が立っていました。


そして拝殿が目の前に建っています。


南山王宮 日枝神社

松尾山村に鎮座する山王社を北山王と称するに対し、ここは南山王宮と呼ばれています。


御祭神は、
天津日子火瓊々杵尊、天津兒屋根命、軻遇突智命
不思議なのは、日吉神社なのに、いわゆる日吉の神を主祭としていないことです。
しかしながら、十禅師という町名があることから、日野の日吉神は、樹下神社の神、 瓊々杵尊が主神なのかもしれません。
山王本社の日吉大社では、樹下神社に、山王神こと大山咋命の妻神、鴨玉依姫を祀っているのですが、
樹下神社は、十禅師社と呼ばれ瓊々杵尊を祀っていたという話もあります。
現在、日吉大社では、瓊々杵尊を剣宮に祀っています。



本殿の右側に金比羅神社です。


階段を上がっていくと 天満宮、 稲荷神社があります。




豊臣稲荷大神と呼ばれているようです。

さらに、 松尾神社、 住吉神社、 水神社、 猿田彦神社がこの山の上に建っています。



松尾神、 住吉神、 水神の三社さんです。

松尾の神は、日吉の神である大山咋命と同じです。

そして猿田彦神社

猿田彦神社だけ、別格扱いのような感じを受けました。
でも、もしかすると日吉大社にも猿田彦を悪王子として祀っていますが、
比良明神が猿田彦命だとされているとうり、湖西の土神が、元々は猿田彦であり、
日吉神の元は・・・・・なんて、
秘密があるのかもしれません。


山から下りてきました。
ここを離れる際に、先ほどの慈眼院をチラリと覗いてみました。


山王の前の慈眼院なので、てっきり慈眼大師の天台宗だと予想したのですが、
間違っていました。
十一面観音を祀る曹洞宗でした。


十一面観音の脇侍として不動明王と多聞天が祀られています。
それら三体は聖徳太子の作だとか・・・


中をチラリと覗いてみます。

松が綺麗ですね!



さて、お腹が減りました。
どこかで昼食が欲しいところです。

ちょっと街中へ移動しようと思います。

こんな坂がありました。

「這上り」
その名のとうりメチャ急な坂があったようです。
今は、

この程度。。。
普通に歩けます。
ここを直進していくと、左手に少し入ったところに
日野商人の館があります。



ちょっと面白い掲示がされていました。

天狗と龍が現れたそうな・・・
これも何かのメッセージかな?


それはそうと、今は、天狗より龍よりランチが先決です。
ここもスルーして先を急ぎました。


この界隈は本当にお寺が多いです。
しかも、そこそこ大きいです。



このお寺の近くに滋賀ではよく見かけるスーパーがあって、
大概このスーパーの中には、食べ物屋があるので、ここでランチにしようと思ったのですが、
たこ焼き屋すらありませんでした。

さらに歩くしかありません。
多分、この辺りは中心街のはずなんですが・・・

食べ物屋はないけど、曳山が展示されていました。


日野祭りの曳山ですが、たくさんあるのですね。。。


少し歩くと公民館で文化祭をされていました。


楽しいそうなので、少し覗いて、
屋台が出ていたので、ここで何か食べさせてもらうことにしました。

今回のランチは、これです。

カレーライス150円です。

ほんと、助かりました。
これを逃すと夕方まで食事にありつけませんでした。

胃袋を満たして、
午後からの散策を続けます。

       つづく







Posted by 柚子木琴火 at 11:21Comments(0)街歩き

2013年11月04日   日野町散策2


前回からの続きです。

十禅師から山王公園のほうへ足を向けました。
真っ直ぐな道を歩いていると、途中でこんな標識が・・・


御代参街道とあります。
『御代参街道(ごだいさんかいどう)は、江戸時代に近江国に整備された脇街道。
東海道土山宿(現・甲賀市)から中山道小幡(現・東近江市)までの約36kmを結ぶ。
「東海道脇街道」「北国越安土道」が正式名称。伊勢道、市道とも呼ばれる。

春日局が1640年(寛永17年)に伊勢神宮から多賀大社へ参詣した際に整備されたと伝えられている。』


地図で「伊勢道」や「いせの」という地名があるのを確認していたので、
伊勢とも関係あるのかな・・・・と思っていると、江戸時代に伊勢までへの道として整備された街道があったのですね。
愛知県や岐阜県など中山道を通り伊勢へ向うとき、
草津を経由する遠回りではなく、甲賀へショートカットする道があるということです。


しばらく今の道を歩いていくと国道307号にあたります。
右折すると甲賀へ行けるようです。
現代の伊勢道になるのでしょうかね?


307号線を行くと、甲賀の手前、というか甲賀市の一部ですが、
水口へ入ります。その間、9kmと表示されています。


水口は、以前散策しましたが、
物部氏の町でした。
そして、その先は、枚方へと繋がっていますが、これも物部氏の町でした。

その地理的条件から、日野も物部氏と関係あるのかな・・・と思いましたが、
今回の散策では、それを確認することはできませんでした。
ただし、物部氏の祖神とされるニギハヤヒノミコトと同神だとされる天火明命を祀る神社は、お参りできました。
でも、僕はこの二神は、同じではないと考えています。


さて、僕は307号線を歩かずにもう少し直進し、
家の立ち並ぶわき道をもう少し歩きました。
山王公園はもうすぐのはずです。

川が流れ、それを取り巻く形でお寺か神社が確認できました。
川には、メダカや小魚が泳いでいました。
こうゆう風景は大好きです。


そして、やはり一つに神社が祀られていました。
岩瀧宮というようです。



御祭神は、
蹈鞴五十鈴姫命

蹈鞴五十鈴姫命は、神武天皇の皇后となる方です。
その両親は、三輪大物主神と勢夜陀多良比売の娘であるとか、
事代主命と勢夜陀多良比売の娘であるという話です。
いずれも出雲と関係ある父親の娘だということです。

神武天皇と蹈鞴五十鈴姫命の子に、
日子八井命、神八井耳命、綏靖天皇が生まれています。

また、神武天皇の死後、神武天皇の子である手研耳命(タギシミミ)と結婚しています。
手研耳命は、日向時代の神武天皇と吾平津媛(阿比良比売)の子ですが、
後に反乱を企てています。


お参りの際は、祭神の表示等がなく祭神が解らなかったのですが、
神社名から、瀬織津姫関係を想像していたのですが、
調べてみて、ちょっと意外でした。
しかし、御由緒は
『社伝によると、養老2年長城山に天降り其後必佐山に遷座、康永中此地に祀ると伝えられている。明治以前は水禊山王宮と称したが、明治以後岩滝神社と改称した。』

明治以前は、水禊山王宮と呼んだようです。
禊の女神だったようですね。

境内は、禊の宮らしく清い感じがしました。







本殿をお参りして参道を戻りますと、
目前に大きなお寺が見えていました。



ちょっと覗いてみましょう。

本誓寺というようです。
日野地方の真宗寺院では、最も古く格式のあるお寺だそうです。


織田信長とも戦ったようです。









さっと、眺めて次へ向うことにしました。

次は、八雲神社です。
日野は、出雲と関係が深そうで、八雲という社名を見ると行ってみたくなりました。


小さな神社です。
滋賀県神社庁の検索にもヒットしません。
明治以前は、大将軍社と呼ばれたようです。




大将軍信仰は、もともと渡来人の信仰で、
天下大将軍、地下女将軍の二柱による厄払い、悪霊除けの信仰です。
今は、方角の守護神として祀られているようで、
京都平安京の守護神としても祀られています。

山王信仰でいうと、
日吉大社の坂本の総社は、大将軍神社で、
大山祇神と磐長姫を祀っています。

しかし、明治以降なぜこれが八雲神になったのか謎です。
八雲といえば、おそらくスサノオノミコトでしょうが、
厄除けから疫病除けの牛頭天王信仰になったのでしょうか・・・
しかし、牛頭天王もその信仰をスサノオ信仰に変えられています。
何にせよ、明治時代というのは、
古来の日本の信仰を歪めてしまった時代だというのは確かです。


僕は、日本人として、古来培った信仰を取り戻す必要性を感じています。
政府によって消されていった日本人の精神を取り戻すという願いも、この古代近江ウォーカーに込めて歩いております。


出雲神社から直ぐ近く、
こんな石碑がありました。



祠の前に立っています。



山王宮と伊勢道との別れ目のようです。
祠は、道祖神かお地蔵さんでも祀ってあるのでしょうか・・・

そこで、まずは山王宮の方へ向うことにしました。

              つづく




















Posted by 柚子木琴火 at 10:34Comments(0)街歩き

2013年11月03日   日野町散策1


今回は、日野町へ散策してきました。
日野町へ訪れるのは、多分20年ぶりくらいになると思います。
実は、かなり昔ですが、最初の就職先で僕の営業エリアとして、この日野町を担当していたことがあるのです。
でも、今回は仕事ではなく、巡礼です。
町の風景も変わっていることでしょう。

日野町で最も有名な人物は、
戦国武将の蒲生氏郷です。
彼は、人質として織田信長の元に参じるのですが、その才能を見込まれ、信長の娘冬姫を妻に貰い受けます。
文武に長け、人望も厚く、
信長亡き後は、豊臣秀吉に仕え、伊勢松坂を治めます。
当時、日野から商人が移住し、今の松坂市日野町となっております。

また、その後、会津を治めることになり、
この時も沢山の職人等が会津に渡ったとききます。
会津若松の若松は、後で報告しますが、
日野町の若松の森から名付けたそうです。

この辺りも近江を巡る不思議な縁を感じます。


さて、日野町へは、近江鉄道を利用します。
ルートは、JR近江八幡駅で乗り換えるか、JR貴生川駅で乗り換えるかです。
時間によって到着時間が変わります。

今回は、近江八幡から向いました。
八日市駅を経由して日野駅へ向います。

八日市駅を目前にすると、一つの山に目がひきつけられます。


なんだろうと窓から眺めていると、それは直ぐに太郎坊であることに気付きました。

太郎坊こと阿賀神社は、天照大御神の第一皇子神である、天忍穂耳尊を祀っております。

今回向う、日野町は、同じく天照大御神の第二皇子神である天穂日命と深い関係のある町です。
また、太郎坊の近くには、近江国一宮、日本武尊を祀る建部大社の元である建部神社が鎮座しております。
どうやら、天孫族と関係の深い地域のような感じです。


日野という地名は、全国で見られます。
興味を引かれるのは、川の名、すなわち日野川として見られるケースが目立つことです。
滋賀県の日野の由来は、
古代に「日野牧」が設置されたこと、また、その昔、日野町のあたりが「桧物(ひもの)の庄」と呼ばれていたことに由来すると伝えられています。

しかし、駅名を見ると

日野駅の手前は、朝日野駅です。
朝日野の名はいつからかわかりませんが、こちらのほうが腑に落ちました。

因みに朝日野には、鋳物師という地名が見られますが、鋳物師とは、鉄、銅の鋳造を職能とする職人のことです。
銅鐸・銅鏡などの鋳銅は、弥生時代以来見られるようです。
僕が、かつて営業車で日野へ向う時は、近江八幡から竜王町を抜けて日野へ向ったものです。
この竜王町には、天日槍由来の鏡という地があり、天日槍の子孫である技術者が移り住んだそうです。
このあたりは、万葉で有名な蒲生野とされており、鏡王女や額田王ゆかりの地です。
今も天日槍を祀る鏡神社が鎮座しております。
そんなわけで、日野も天日槍と関係あるのでは・・・・なんて想像をたくましくし電車を降りました。
日野駅の隣は、水口になります。

駅は、昭和を思い出すレトロな佇まいです。


本数が少ないので、時刻表は確認しておいたほうが良いです。



さて、前ふりが長くなりましたが、
散策を始めます。
まずは駅から出て右周りに散策をしようと思います。
最初に向う先は、
比都佐神社 (ヒツサ) です。





御祭神は、
日子火々出見尊、天津日子火瓊々杵尊、木花開耶姫尊、武甕槌神、天太玉命、大己貴神、経津主神、天兒屋根神、猿田彦神

このあたりは、弥生時代から拓けていたようで、「ひさ野」と呼ばれていたようで、
久野の郷を 守護する久野大明神が祀られていたようです。

日野は、ひさ野からきているのかもしれませんね。。。

平安時代は、日吉山王社の荘園となったそうで、十禅師宮が合祀され村の名になったようです。
山王総本宮日吉大社の十禅師社というと、鴨玉依姫を祭神としているのですが、
十禅師とは、瓊々杵尊をさすようで、日野では、ニニギノミコトがよく祀られているのを見ました。



境内では、グランドゴルフを楽しまれているグループがいました。
じゃましないように参道を歩いてお参りします。





広い立派な神社です。
氏子さんの手入れも行き届いているようです。

本殿のあと、境内社をお参りして次へと向います。




ちょっと話しは、飛んでしまうのですが、
この日の散策の最後に見た駅前のイラストマップには、この比都佐神社は天智天皇が遷都を考えていた場所だと書かれていました。


最後に訪れた鈴休神社 (スズヤミ) は、その時の由来の神社です。
たまたま、知らずに最後にこの神社の前を通ったのですが、ラッキーでした。

天智天皇が、大津宮に遷都され、更に美しい都を求めてここへ訪れた時に、ここで休まれた場所が神社になったそうです。
観光案内所で、この話しを訊ねると、馬をここに繋いで休憩したとか言われていました。



この神社には、霊泉が湧いております。


興味深いのは、この神社には、
阿須波神と波日岐神が御祭神として祀られていることです。
この神は、旅の神とされていることから祀られているのだと思いますが、
滋賀県神社庁の検索で、この神を祀っている神社は、ここしかヒットしません。
この神は、アラハバキ神と関係があると考えられるので、興味深いです。
関西ではアラハバキ神は確認されませんから、名を変えられている可能性があります。
また、日野には、瀬織津姫を祀る桜川の賀川神社や天照荒魂神を祀る長寸神社 (ナガキ)がありますから、ほんと、ディープな町だと感じます。

ということで、最後にお参りした神社ですが、
最初の比都佐神社と関係あるので、ここで報告しておきます。




話しを最初に戻します。
比都佐神社のある十禅師から山王公園のある場所へ足を向けることにしました。



             つづく





Posted by 柚子木琴火 at 10:19Comments(0)街歩き

2013年10月12日   石部散策3

前回からの続きです。

甲西駅と逆に川沿いを登っていきました。
目指すのは松尾神社です。
松尾といえば、秦氏ですね。

神社の手前には、西照寺がありました。


その前を通り松尾神社の参道へ向います。



松尾神社は、お寺と一緒になっています。


御祭神は、大山咋神。松尾大社の神様ですね。
配祀神に天忍日命、 道臣命 。
これは秦氏ではなく、大伴氏の先祖となります。

甲賀には、天忍日命を祀る油日神社がありますから、その関係かもしれません。
天忍日命は天孫降臨の場面に久米氏の祖神とされる天久米命(アメノクメ)と共に武装して瓊瓊杵尊(ニニギ)の先導をした神様ですが、祭祀は珍しいようです。

道臣命 は、神武東征において、八咫烏の先導により久米部を率いて菟田(宇陀)への道を開いた。その功績により神武天皇から名を改めて道臣と名乗るよう言われたそうです。

なんか、このお二人役柄が似ていますね。

松尾神社は、文徳天皇の仁寿三年(853年)に当時の領主藤原頼平が山城国の松尾大明神を美松山に勧請したのが始まりだそうです。




境内に入ってすぐ右にお寺のお堂があります。


確か、薬師如来だったかな・・・

で、正面に本殿です。


左右に亀があります。

ここの神紋は亀だそうです。

あと摂社、末社が祀られています。




松尾神社をあとにすると、最後に向う先は、
ゴルフ練習場の向こう側に鎮座している神社です。

練習場に接している公園を通り抜け、
また、川を渡ると、




飯道神社が鎮座しています。
阿星山から繋がる飯道山の山頂に鎮座している飯道神社の里宮だという説もある神社です。
飯道山も修験道の聖地でかつてはたいそう栄えていました。
また東大寺二月堂の守護神でもあります。



境内は静かです。



御祭神は素盞鳴尊
配祀神に菅原道真公


境内社です。


これで今回の巡礼も終わりです。
後は、甲西駅から帰路に着きます。

そうそう、ここからもう少し山の方へ入ると
天然記念物のうつくし松が生えています。
『美松山の斜面だけに群生する、極めて珍しいマツ。劣性遺伝による変種といわれ、国の天然記念物に指定されています。根本近くから枝が放射状に分岐した樹形は、まるで扇か傘のよう。平安時代、藤原頼平が静養でこの地を訪れた際、松尾神社の使いの童女が現れ、周囲の山を美しい松に変えたとか。』



今回は、そこまで行く余力がありません。
ノドも乾いたので、
この後は、いつもの酒場へ向うことにしました。


                        おわり






Posted by 柚子木琴火 at 14:11Comments(0)街歩き

2013年10月02日   石部散策2

前回からのつづきです。

石部はあまり食べ物屋さんは、見かけませんでした。
なので、あらかじめ定めていたお寿司屋さんでランチを食べました。
その後、甲西駅へ向うのですが、
その道中でいくつか神社を巡ることにしました。

まずは、上葦穂(かみほ)神社です。

吉姫神社では、吉姫と共に上鹿葦津姫神が祀られていたこともあり、
吉姫とは、葦津姫ではないかと考えた以上、
上葦穂神社の祭神は、葦津姫だと想像していたのですが・・・


式内上葦穂神社です。

川を渡って境内に参入します。


今回は、橋を渡っての神社が目立ちます。
どうしても川神、水神の祭祀を想像しちゃいますよね。
この川で、昔は禊をしていたのでは・・・なんてね。

参道を抜けると、


なぜか拝殿の横にあたるのです。

正面からはちゃんとしているのに、参道が横から入るのです。


元は違うのかもしれませんが、今は本殿の反対側は社務所があります。

とりあえずお参りしました。


それで御祭神ですが、
伊邪那岐命と 国常立命です。
想像ははずれました。。。

社伝によると、
『孝徳天皇の白雉元年二月に阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀と伝えられている。』

『この御幡の降った地を御幡塚として現在も聖地とされている。その後社殿を設けて祀られ、旧社号を白雉神社と称していた。』

元は、葦ではなく 白雉神社だったのですね。



拝殿にこんな表示が、


この神社は、神仏習合だったようで、地蔵さまがおられました。


お地蔵さまは、お堂の中でお姿は拝見できませんでしたが、
手を合わせておきました。
オン・カカカ・・・


神社を出ると、甲西駅までは少し距離があります。
景色を楽しみながら歩きました。

一番目だって気になるのは、
この山だ!



野洲川を隔てて、多分、
菩提寺山だと思います。
この山の向こうには、三上山が隠れています。

菩提寺山は、別名竜王山と呼ばれここに小菩提寺三十六坊とよばれる伽藍があったそうで、
織田信長に燃やされていますが、小菩提寺跡は、白洲正子の「近江山河抄」にも記述が見えます。
小菩提寺を建立したのは、金粛菩薩(こんしょうぼさつ)と言われています。
金粛菩薩は、別人だという記録もあるのですが、良弁さんのことだとされています。
良弁さんとは、東大寺初代別当を務めた偉いお坊様です。

この石部や栗東、湖南地区は、この良弁さんが作った大宗教圏なのです。
小菩提寺に対し、金勝山(こんぜやま)には、大菩提寺と呼ばれる金勝寺があります。
多分ですが、これが金勝山かな・・・


金勝寺も良弁の開基とされています。
金勝山は、峰が連なりここにも竜王山があって、そこには八大龍王が祀られています。
金勝山は、手頃なハイキングコースになっていて、今も残る金勝寺や、天狗岩や耳岩といった巨石が見られます。
花崗岩が隆起してできた珍しい形の岩がおりなす風景は、正に神の住まう山に相応しい雰囲気を持っていると思います。

そして、この石部にも金勝山と連なって阿星山が存在し、前にも書いたとおり五千坊と言われる一大宗教圏を形成していました。
多分・・・自信ないけど、これが阿星山かな?


もちろん良弁の開基です。
阿星山中の標高約600m付近にも竜王社があり、竜王山と称しています。
現在も東寺地区の人々によって毎年七月八日に竜王社に参篭し、祠のそばの巨岩にあけられた二ヶ所の穴に持参した水を注ぎ、竜王社の神体の石を長寿寺の鎮守社である白山神社に持ち帰り、五穀豊穣を祈願するという雨乞いのなごりと思われる行事が残っていそうです。

ここは、龍神信仰、水神信仰の地なのです。
それもそれぞれの竜王山に囲まれるようにして真ん中に野洲川が流れています。

また、阿星山の信楽側の飯道山東中腹にも良弁さん開基の薬王寺があります。
飯道山山頂の飯道神社は、東大寺二月堂の守護神とされています。
二月堂と言えば、お水送りで有名ですが、
そのお水を送る遠敷に良弁さんの誕生碑があります。
良弁さんは、いくつか生誕地の伝説があり、近江であるとも伝えられています。

石部にある良弁開基の長寿寺の鎮守社が白山神社だというのも意味がありそうです。
良弁さんと白山信仰の泰澄さんは同時代を生きております。


そんなことを考えながら、目印の川まできました。


おそらく方角からいくと野洲川に流れ込んでいるのだと思います。
この川の川下へ行くと、甲西駅の方角です。
しかし、少し川上へ登ってみることにしました。

地図でちょっと気になる神社があったのです。


              つづく






Posted by 柚子木琴火 at 20:26Comments(0)街歩き

2013年09月29日   石部散策1

秋晴れの天気に誘われて、
この日も散策に出かけました。
目的地は、石部です。

石部町は、今や湖南市となりましたが、昔より東海道五十三次の石部の宿として栄えていました。
その名のとうり石の採掘場だったのだと思います。
古代より石灰の産地として知られているようで、石部は磯部とも呼ばれたようです。
奈良の石上神宮がイソノカミと読むことを思えば、石部もイソベなのかもしれませんね。

石灰岩のあるところは鉄鉱石のある可能性があります。
それは、マグマの活動により発生する高温の鉱化流体が岩石中を移動・上昇するときに、
石灰岩やドロストーンの中を通過すると化学的に反応して、
これらの岩石をケイ酸塩鉱物の集合体で置き換えてしまい、
この際、鉱化流体中に溶存していた鉄、銅、亜鉛、鉛、タングステン、モリブデン、スズなどの有用金属も
硫化物や酸化物として沈殿して鉱床をつくるからです。

ここ石部も古生代とその後に貫入した花崗岩との接触部にできた接触交代鉱床で、
磁鉄鉱床の存在が知られています。
石部町には江戸時代の製鉄遺跡はあるのですが、古代の製鉄遺跡は今のところ発見されていないようです。
しかしながら、その存在の可能性は高いようです。
「鉄鉱石の採掘地と製鉄遺跡の関係についての試論・・・」参照)

なので、石部とは鉄鉱石の採掘場ではなかったのか・・・なんて想像をしてしまいます。
また、鋼の精製には石灰は必須な要素だそうです。

実は、ここ石部町を含む甲賀には土蜘蛛が居たのではと考えています。
僕の母方の実家のある石部から近い三雲は、
奈良時代にはその地名が存在していました。
この三雲は三蜘蛛なのではないか・・・と考えています。
もしかすると水蜘蛛かもしれません。
野洲川の対岸は水口です。物部氏の地です。

甲賀は、元伊勢日雲宮があった場所です。
今、日雲宮跡は、信楽の日雲神社だといわれていますが、
その他にも元伊勢を伝える神社があり、三雲の実家の産土社もその一つなのです。

以前ある神主さんに話しを聞いたところ、
元伊勢は、いくつかあって当然だ。と言っていました。
倭姫の一行は、何百人といたそうで、
甲可日雲宮に4年奉斎というのは、4年かかってその地を平定したという意味だと言っていました。
その際に、いくつかの駐屯所を移動したわけで、その後が元伊勢になったということです。
ということは、その地に征服すべき民がいたわけで、
それが三雲の製鉄民である土蜘蛛だったのではないかという想像です。
ただ、それを証明する記録は残っていないと思います。


長いまえふりとなりましたが、
僕にとって縁深き場所なのです。

では、JR石部駅からスタートです。



草津駅で三重県方面へ向う草津線に乗り換えて二駅です。

ほとんど野洲川沿いの道で伊勢へと向う道です。
石部は、伊勢への宿場町なのです。




石部宿は「京立ち石部泊り」と言われ、京都を出て1日の行程でした。
斎王の道であり伊勢参りの道でした。
斎王一行は、近江国の勢多(せた)・甲賀(こうか)・垂水(たるみ)、伊勢国の鈴鹿(すずか)・一志(いちし)に設けられた仮設の宮、頓宮(とんぐう)に宿泊し、5泊6日の行程で伊勢に赴きました。
磯部という地名は、伊勢にも残っていますが、
地理的にも伊勢と石部は繋がっているのだと思います。


さて今回のお目当ては、吉御子神社と吉姫神社の男女の対神の神社巡りです。

石部駅から1kmくらいのところに吉御子神社があります。
まずは、そこを目指します。
やはり川の近くに鎮座しておりました。


住宅地の中の明るい場所です。

真っ直ぐの長い参道を歩きます。


御幸橋を渡って境内に入ります。



ちょっと威厳というのか・・・
立派な神社だなというか、パワーを感じました。
予想外です。


御祭神は、吉彦命、吉姫命、 鹿葦津姫大神
配祀神に応神天皇 猿田彦命 をお祀りされています。

『社伝によれば崇神天皇六十八年に神降があり、垂仁天皇二年に宇加之彦の子、吉比古・吉比女の神を、谷黒の御前に祀ったのが創祀とされている。』

延喜式内石部鹿塩神神社の論社となっています。



御祭神の吉彦、吉姫は、「倭姫命世記」に
『多気連の祖、宇加之日子の子、吉志比女、次に吉比古二人参り相いき』
とありますが、二人が倭姫命に参向したのは、甲賀ではなく伊勢国壱志郡の阿佐加だったようです。
また、多気連は、伊勢国多気郡の豪族であることからも石部鹿塩神社と倭姫命伝承との結びつきを考えるのは難しいと石部町史には記載されていました。
ただ、吉志比女、吉比古を奉祀する氏族が石部に住み着いた可能性は考えられるということです。

本殿です。


慶応3年、上加茂神社より旧社殿を移築したようです。


吉御子神社を出ると、対の吉姫神社へと向いました。

すると吉御子神社のすぐ近くに茶店がありました。


安藤広重が紹介した田楽茶屋が再現されています。


店の前は、当然東海道ですね。


現代の東海道の風景は、


ちょっと遠回りをしながら吉姫神社へ向いました。
道中、石部図書館によったり、


溝を覗いて魚の存在を確認したり


名所の案内を見たり

長寿寺は、良弁によって建てられたのか・・・
と気にしてみたり。

そうそう、石部は南側に阿星山があって、
ここは比叡山以前の一大宗教圏だったのです。
平安時代には、阿星山五千坊と呼ばれるほどだったのですが、現在はあまり知られていませんね。


と、ブラブラ歩いていると近江の地酒「香の泉」の竹内酒造も発見しました。
散策中でなければ買物していたところです。

もう少し歩を進めるとお目当ての吉姫神社へ辿り着きました。
石部小学校の近くです。



ここも住宅に囲まれた参道を抜けると立派な神域が形成されていました。


御祭神は、上鹿葦津姫神、吉比女大神
配祀神に木花開耶姫です。
鹿葦津姫神とは、木花開耶姫の別名です。



僕は、上鹿葦津姫神、吉比女大神、木花開耶姫は同神じゃないのかな?と感じました。
葦(あし)は、悪しに通じるため、葦(よし)と近江では読むのです。
これがヨシヒメ=吉姫じゃないのかな・・・ということですが、もしそうなら吉彦は、ニニギノミコトになるのでしょうか?
この近くに十禅寺緑地公園なるものがあるようです。

十禅師とは、山王信仰ではニニギノミコトを意味します。


そんなことを考えながら本殿へお参りしました。


本殿は扉が開いており、中でお参りすることができました。
燦々と光が降り注ぐ中で、誰も居ない静かな神域で気持ちの良いお参りになりました。





境内社の世継神社、天満宮、水神社も祀られています。


本殿の横には神水が湧いています。


その奥はお稲荷さんかな。。。



さて、図書館で調べ物をした分、時間がお昼を回ってしまいました。
お腹が減ったので昼食をとり、
午後からもう少し甲西駅へ向って散策してみようと思います。


                 つづく




Posted by 柚子木琴火 at 15:19Comments(0)街歩き