前回からの続きです。
小野神社を後にして、次に向かおうとしたところは、
石神古墳群です。
ちょっと山道を歩くことになりますが、途中にお稲荷さんが祀っていました。
こういう小さな信仰にも歴史があるはずです。
道の分岐。小野は、道しるべがあちこちで見られるので、散策しやすいです。
石神古墳群
「石神古墳群(小野1157-2)は、4基の円墳からなる古墳群で、いずれも横穴式石室をもっています。1号墳は7世紀頃の古墳で、1974年に調査が行われ、現在は石棺だけが残っています。2号墳は石室の一部が地面から露出しており、少しだけ内部が見えます。3号墳と4号墳はいずれも石室が開口しています。2,3,4号墳は6世紀後半のものと推定されます。」
山道は、木々が生い茂り、ちょっと蛇とか蜂とかが出てきたら嫌だな・・・という気分になりました。
ここから古墳へと入っていくようですが、止めました。
こちらのブログには、古墳の様子を画像を交えて紹介されています。
https://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-1393.html
とりあえず、僕は小野道風神社へ向かうことにしました。
少し竹藪を歩くと道がひらけ明るい場所に出ました。
公園があり、歴史散歩のコースも整備されています。
その道沿いに小野道風神社は鎮座しております。
参道すぐにこんなものがありました。
小野道風といえば、思い出すのが花札です。

この花札に書かれた人物が小野道風なので、この場面を再現したかったのでしょうね。
小野道風神社は、先ほど参詣した小野神社の飛地境内社で、社殿は小野神社と同じく三間社流造であり興国二年鎮座と伝えられています。
御祭神は、小野道風です。
この方は、平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されているそうです。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称されています。
また、「能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。」 Wikipedia参照
子供の頃より親しんだ花札のおじさんとしか思っていませんでしたが、書道の大家だったんですね。
本殿の脇にも祠が祀られています。
文殊神社とは、初めて見ました。
御祭神が気になるところですが、わかりません。文殊菩薩だとすると菩薩様を神様として祀っていることになりますが・・・
文殊様は、書道上達にご利益があるとされているようですから、小野道風と並んで祀られているのかもしれませんね。
樹下神社
八坂神社
境内からは、琵琶湖大橋が見えます。
次は、小野妹子神社へと向かいます。
少し歩くことになります。
小野妹子神社は、妹子の墓と考えられている唐臼山古墳に鎮座しています。
唐臼山古墳
「この古墳は、西側の封土が流出していて、巨大な箱形石棺状の石室が露出している。現況で全長5.45m、幅1.60m、高さ1.21mの長方形箱形を呈する。この様な構造を持つ古墳は、県内では3例しか認められていない。また、大和朝廷の官人層だけが造営できるという指摘もある。
石室を成す各石材は、いずれも1.5×2.5m前後の扁平な板石から成る。奥壁1枚、東側壁石3枚、西側壁石3~4枚を立岩として連ねて室をつくり、4枚前後の天井石で覆うものである。しかし、石室の入口がどのような構造を成したか不明である。入口付近の床面には、土師器(はじき)細片と7世紀前後葉の須恵器(すえき)片が認められた。小野妹子(おののいもこ)を被葬者とする伝承は、江戸時代の記録にはじめて見られる。
平成2年3月 志賀町教育委員会」
小野妹子の墓と伝えれれている一方、その可能性は低いと大津市歴史博物館のホームページは説明しています。
「唐臼山古墳
からうすやまこふん
周囲を一望する小野水明一丁目の丘陵尾根筋の上に築かれる。墳丘は流失し、破損した石室が露出している。石室は現状で南北5.75m、幅1.5m、高さ1.7mが計測されている。石室内には玉石が敷かれており、玉石の上に置かれていた須恵器の坏身・坏蓋から7世紀前半頃の築造かと推定されている。伝説では、小野妹子を埋葬者とする説もあるが、可能性は低い。」
どちらにせよ、高貴な方のお墓であるのは間違いなさそうです。
見晴らしは良くて、東屋もありお弁当を持ってくると良さそうです。
ここから少し歩くと小野妹子神社が鎮座しています。
先ほどの小野道風などに比べると規模は小さいです。
「外交・華道の祖神
小野妹子神社
(祭神・大徳冠位小野妹子(いもこ)命)
推古朝の廷臣、妹子は遣隋使として外国に行かれた先駆者である。
西暦六〇七年聖徳太子が中国の隋朝と外交を開くに当り、遣隋使となり国書をもって渡海する。それには「日出ずる国の天子 日没する国の天子に書をいたす」と記され、大国隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を海外に示された外交史上有名な神徳の高い祭神である。今も神社へは外交官、駐在員の参拝が多い。
又、妹子は華道の創設者として、今も華道家元「池の坊」によって免許の授与が受け継がれている。
社殿は、古墳上にあり、裏の石垣のあとは、妹子の墓、唐臼山(からうすやま)古墳である。」
これがその奥の古墳。
展望台があって見晴らしは良いです。
対岸に三上山が見えます。
今回、小野妹子神社には裏側からアプローチしたようで、参道はここからつながっていました。
とにかく暑いので、これくらいで切り上げることにしました。
ちょうどお昼時です。
どこかでビールでもやりましょう。
湖西線に突き当たり、線路沿いに歩いて小野駅まて辿り着きました。
和邇駅から小野駅まで一駅歩いたことになります。
駅までくればお店が見つかると思いましたが、あまりお店がありませんでした。
なので、国道へ出て昼を食べて帰りました。
終わり
前回からの続きです。
阿自岐神社をあとにして、近江鉄道尼子駅へと向かいます。
駅の位置をはっきり把握していなかったので、とりあえず線路と並行に歩いて駅を探すことにしました。
なんせ、周りは田んぼばかりで見晴らしは良いのです。
後ろに見えるのはたぶん、鈴鹿山脈でしょうか?
道中、いちご園がありました。
それから鍼灸、マッサージ処も。
久しぶりのウォーキングで足はけっこう悲鳴をあげています。
マッサージで癒してやりたいところですが。
お正月でお休みです。
ようやく駅にたどり着きました。
時刻表を見るとしばらく電車は来ません。
40分ほど待ち時間があるので、もう一社参詣することにしました。
ところで、尼子の地ですが・・・
尼子というと、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた大名尼子氏がいます。
京極氏というと近江源氏の流れですが、出雲源氏はこの近江源氏がら分かれています。
尼子氏もまた近江源氏から出雲へ移ったわけですが、近江と出雲はなんらかの縁で繋がっています。
さて、この尼子氏は京極高久が甲良庄尼子郷を受領し尼子性を名のったのが始まりです。
つまり、尼子氏以前に尼子という地名は存在していました。
では、尼子の由来はというと、ネット情報では、
「尼子氏の始祖が天女との間に子供をもうけ、やがて子供は天女の子供という意味から、天子(あまこ)という姓を名乗るようになった。
しかし京にいる天皇と同じ字は恐れ多いと、読み方はそのままに尼子という字に改めた。」
という伝説があるようですが、ご当地の説明では、天武天皇の時代にその妃であり、高市皇子の生母である尼子姫がこの地に住んだことが由来とされています。
天武天皇といえば大海人皇子と呼ばれていましたが、尼子姫も海子姫なのかもしれないですね。
この夫婦は海人族に関係の深いことがわかります。
尼子姫の父は、宗形 徳善(むなかた の とくぜん)という宗像大社の大宮司家を中核とする宗形君ですが、宗像氏は、大国主命を祖とする三輪氏の一族で阿田加多須命の子孫といわれています。
やはり古代より出雲と近江は関係が深かったように思います。
尼子駅から10分ほど歩くと甲良神社が鎮座しております。
電車を待つ時間にこの甲良神社をお参りすることにしました。
ご祭神は、武内宿禰命
配祀神に田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命。いわゆる宗像三女神です。
尼子姫の実家の神ということですね。
ご由緒によると
「主祭神の鎮座は社記によると、筑後国の高良大社より勧請されたものといわれるが、その年代は不詳である。又相殿の三女神については、「社伝」によれば、「納胸形君徳善女尼子姫」 此尼子娘後に斯所に住玉ひて三女神を祭り給ひし」とあり、また社記に「治暦年中より甲良荘の総社と成りける」とあることから治暦以前に勧請されたもので、その頃から甲良荘33ヶ村の総社として厚く信仰されていた。」
起源は、尼子姫がこの地に訪れた際に筑後の高良大社から勧請したとされています。
宗像大社と同じ福岡県に鎮座している高良大社から勧請しています。
高良大社の高良玉垂命 (こうらたまたれのみこと)を祀ることから、ここは甲良(こうら)と呼ばれたということでしょうか・・・
高良玉垂命とは、甲良神社の武内宿禰のことだとされています。
地理的に見ると尼子郷が位置しているのは甲良荘でした。そして今の地名で見ると、甲良町、隣の多賀町、豊郷町をあわせて犬上郡と言います。
犬上の由来は、「ヤマトタケルノミコトの子、稲依別王(イナヨリワケノミコ)が犬上君、建部君二つの族の始祖」であり、犬上君がこの地域一帯を統率者であったことからきています。
前回に書いた豊郷の阿自岐神社は、景行天皇43年犬上君により創立という伝わっています。
景行天皇は、ヤマトタケルの父ですが、ヤマトタケルは創作だと考えられているので、犬上郡一帯が開かれたのは、景行天皇(ヤマトタケル)時代またはその子の時代だと考えて良さそうです。
阿自岐神社の祭神は、味耜高彦根神・道主貴神・天児屋根神ほか3神ですが、道主貴神とは、宗像三女神のことです。
宗像三女神のタギイヒメは、アジスキタカヒコネの母です。
この母子神ですが、アジスキタカヒコネは迦毛大御神(かものおおみかみ)と天照大御神と同じく大御神の名をもち、道主貴神もまた大霊留女貴と同じく貴(ムチ)という高い神の称号を持っています。
つまり、高貴な母子神ということです。
甲良町のウィキによると
「桂城神社(甲良町下之郷)の名や甲良神社(甲良町尼子)の祭神が武内宿禰であることから、古代は葛城氏の支配地であった。その後、犬上氏の領地となる。」
この地は、葛城氏とも深い繋がりがあるようです。
アジスキタカヒコネが、葛城古道に鎮座する高鴨神社のご祭神なのも、葛城氏がここに移住してきた証なのかもしれません。
尼子を初め、豊郷、犬上の地は、海人族と鴨族の絡み合った地なのだと思いました。
少し長くなりますが、尼子や甲良と葛城氏と関係を考えみたいと思います。
興味がなければ読み飛ばしてください。
「大昔、奈良に大和朝廷があったころ、その大和朝廷と並び立つぐらい大きな力をもった豪族「葛城族」がありました。この葛城族は、雄略天皇に攻め滅ぼされ、各地に逃げました。その一族の葛城氏は近江の国へ逃れました。
多賀や甲良、豊郷地区の神社に祭られている神様はどれも葛城氏と関係があるところから、その一族が移り住んだのではないかと考える人もいます。
なお、葛城氏とは「スクナビコナ」のことであり、朝鮮からの渡来者と考える学者がいます。」
こちらのHPより抜粋しました。
http://shimonogo.under.jp/rekisi/smonogorekisi/2.html
つまり葛城氏は、雄略天皇の時代に甲良荘に落ち延びたということです。
上記のように葛城氏がスクナヒコナかどうかはわかりませんが、葛城氏が渡来系だという考えはあるようです。
例えば、葛城氏の祖、葛城襲津彦の記録が半島での行動が殆どであることから、葛城氏は、朝鮮半島における軍事行動や外交交渉を担っていた一族だったと思われています。
さらに発展させて葛城氏は、加羅国の国王家一族だと考える人もネット上にはいるようです。
しかし、こんな記録があります。
襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条には、『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介されています。この「沙至比跪」と襲津彦を同一人物と考えられているので、つまり葛城襲津彦は、武力によって加羅を攻め滅ぼし、その後そこを統治したのではないかと想像できます。
天皇と並ぶ権力を持っていた葛城氏ですが、葛城襲津彦の孫である葛城円大臣が、
「安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)」
と、葛城氏は衰退します。
葛城円の娘は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)といい雄略天皇の后になったいるのですが、名が韓姫というのは、なんらか半島人と関係が深そうです。
もしかすると襲津彦以後、この血筋に加羅人の血が混じった可能性も考えられます。
さて、葛城襲津彦の父は武内宿禰です。
武内宿禰の素性をウィキで見ると、
「『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。
孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。
なお、応神天皇紀では弟(母は不明)として甘美内宿禰の名が見える。
『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。
同書においては、異母兄弟(長幼不詳)として味師内宿禰(甘美内宿禰)の名が見える。」
天皇家の血筋だというのはわかりますが、もう一つイメージがわきません。
これを出雲王家の伝承でみると、いろいろと今回の考察も筋が見えるように思います。
伝承では、武内宿禰が長寿なのは、何代かの記録を武内宿禰の名で記録したからであり、宿禰とは物部家に関係のある敬称であり個人名ではないということです。
一般に、武内宿禰の名で知られる人は、武内大田根と言いました。
武内家の起源は、初代大和王・ムラクモの弟、高倉下を始祖とします。
西出雲王・神門臣家の大屋姫は、五十猛命の妻となり高倉下を生み、その子孫の家は、紀伊国造家となりました。
その子孫の山下陰姫は、磯城王朝のクニクル大王(孝元天皇)の御子、彦布都押之信(ヒコフツオシノマコト)と結婚しました。
その子が、武内大田根でした。
出雲や大和にルーツを持つ武内大田根でしたが、父方の祖母(熊野系物部氏のイカガシコメ姫)が物部氏だったので当初は九州王朝に組みしました。
ここが、ややこしいところです。
最初、九州王朝のために働くも、後に大和側に寝返り、そのため敗北し逃れるのです。
この敗走を手助けしたのが東出雲王家だったのです。
話は、甲良荘尼子郷の尼子姫に移します。
尼子姫は、九州宗像家の娘で天武天皇に嫁ぎます。
その尼子姫が高良大社から勧請し、甲良神社に武内宿禰を祀りました。
尼子姫の血脈を遡ると、宗像君の祖先は、「大國主命六世孫吾田片隅之後也」と伝わっています。
この宗像家のことを出雲王家の伝承では、
オオナモチの六代目オミツヌ(神門臣家の出身)の孫アタカタスが筑前国に行き、宗形家を起こした。
アタカタスが、宗像三姉妹を育てたのは八代オオナモチ(八千矛王=一般的に大国主命の名で知られる)の時代の少し前である。
田心姫は七代オオナモチ、天之冬衣の后となりヤエナミツミ(八重波津身=コトシロヌシ)を産んだ。
コトシロヌシは、摂津国三島の三島家より玉櫛姫(生玉依姫)を后に迎えられた。
玉櫛姫は、クシヒカタ、タタライスズ姫、カワマタ姫を生んだ。
八代オオナモチである神門臣家の八千矛の元には、多伎津姫(タキツ)が后として迎えら、その子にアジスキタカヒコネが生まれる。
とあり、いずれにしても宗像家の血脈は西出雲王家に繋がり、この血は別に出雲でアジスキタカヒコネに続いています。
尼子姫の血を遡ると西出雲王家に繋がり、ここから同じ祖先をもつアジスキタカヒコネの血脈は葛城の高鴨に流れていきます。
阿自岐(アジキ)神社のご祭神が味耜高彦根神と道主貴神(宗像三女神)なのも血脈からも理解できます。
阿自岐神社は景行天皇43年犬上君により創立と伝わっています。
つまり、尼子姫が宗像より尼子に移住する以前から、尼子の地は、西出雲王家由来の地だったということがわかります。
そして、この西出雲王家の血は、西出雲王家の大屋姫と五十猛の間の子、高倉下の子孫である武内宿禰と繋がってくるのです。
そんなわけで、葛城氏が雄略天皇に追われ甲良荘を頼ったのもこの血脈故かも知れません。
さて、難しい話はこれくらいで、本殿をお参りしましょう。
りっぱな拝殿の後ろに本殿が祀られています。
そして、摂社、末社です。
火伏神社、 稲荷神社、 禮敬大明神らが祀られているようです。
こんなものもありました。
甲良石というようです。
武内宿禰の奥津城といわれているそうです。
奥津城とは、奥都城や奥城とも書かれますが、神道式の墓のことを言うようです。
こちらのブログでは、
「この石は頭だけでその底にどれだけ埋まっているのかわからない巨石といわれ、この石に触れると災いや不思議なことが起こるともいわれています。」 参照:「巨石マップ」
と紹介されています。
そろそろ電車がくる頃なので、尼子駅に戻ることにしました。
すっかり昼食も食べそびれていたので、近くのコンビニでシュークリームを買って、ほうばりながら駅へと向かいました。
帰りは、尼子駅から彦根に出て、JRに乗り換えて帰りました。
まだまだ、この地はわからないことが多いです。
最初の問題、稲部遺跡のヒントもつかめないままです。
また、いつかそんな謎も追ってみたいのですが、今はここまで。
帰ってゆっくりと休むことにします。
終わり。
前回からの続きです。
天稚彦神社の次は、阿自岐神社へ向かいます。
阿自岐神社へは、直線で2kmほどだと思いますが徒歩だと少し距離があります。僕はわかりやすいように国道8号線を歩くことにしました。
なので、一端、国道を目指して歩きます。
ところで、もし古代出雲と関係あるのなら夫婦の信仰が残っているはずと思っていましたが、今回はそれが見当たりません。
そう思っていると、道中、こんなものが目に入りました。
夫婦石。だけどこれは新しいものです。
ここは、公民館のようですが、夫婦石を置いた背景に夫婦の信仰が隠れているのなら一つの手がかりになりそうですが、確証はありません。違うような気がしました。
さらに国道に向かって歩いていると池がありました。
一羽の白鳥が飼われているようです。
勝鳥神社に続いて白鳥とは、酉年そうそう縁起が良さそうですね。
もう正午も随分過ぎており、お腹も空いていました。
国道に出れば回転寿司があるので、昼食にしようかと思ったのですが、やはりお正月ですね。
満席で、お客さんが並んでいました。
昼食を諦めて車の多い、国道8号線を北上します。
やがて安食西という交差点にさしかかり、ここを東に折れますと、あと少しで阿自岐神社につきます。
安食とは阿自岐の別表記ですね。
まずアプローチしたのは、阿自岐神社の庭園です。
名勝と石碑に刻まれていますが、あまり手入れがされておらず庭園を歩くことはやめました。
隣接して阿自岐神社が鎮座しています。
こちらは、綺麗ですね。
御祭神は、味耜高彦根神、道主貴神
配祀神に天児屋根命、保食神、須佐之男命、天照大神、應神天皇、宇迦之御魂神、 大巳貴命、 猿田彦神、植山姫神
味耜高彦根神は、大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子で、同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいます。
つまり出雲の神様です。
配祀神に須佐之男命、大巳貴命、 猿田彦神が祀られているのも出雲繋がりなのだと思います。
道主貴(みちぬしのむち)神とは、宗像三女神のことですから、味耜高彦根神の母神を一緒に祀っていることになります。
拝殿です。
その奥の本殿へお参りしました。
境内には池があるのですが、これがとても古いものだそうです。
滋賀県神社庁のHPによると
「当社の境内は全体が庭園になっており、社殿を中心に東西に池があり、池には多数の島を配しており、池泉多頭式庭園のようすをそなえている。庭園の規模は大きく、池中の中島には数百年の老杉が育成している。作庭年代は上古時代のものと推定され、原型をとどめているのは当社のみとされている。」
また白鳥がいました。
弁天島のような中島もあります。
行ってみようかと思ったのですが、もし途中で壊たりすると困るな・・・と思わせる感じだったので止めました。
さて、この池から道を挟んで向かいにこんなものが建てられていました。
碑文は阿自岐の里を説明しているようです。
簡単にまとめると、阿自岐の郷は、応神天皇時代に百済から渡来した阿自岐氏によって拓かれた土地であるということです。
豊郷町役場のHPには、阿自岐神社についてこんなことが書かれています。
「この神社に祀られているのは、アジスキタカヒコネの神で阿自岐氏のことです。阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王仁氏を招いたといわれています。それはなんと今から1500年も前の事ですから、まだ庭などなかっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場となっていたのでしょう。これは日本最古の庭園の一つともいえます。また、この地域が安食と呼ばれるルーツは、やはり阿自岐氏からきたと思われます。阿自岐氏が近江に来て美しい庭園を築き、心豊かに安らぐこの郷に住んだと聞いて訪れると遠く千数百年前、古代豪族の美の世界へロマンが広がります」
また滋賀県観光情報には、こんなふうに書かれています。
「あじきさんと呼ばれ、主祭神(味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)・道主貴神(みちぬしむちのかみ))と相殿神(天児屋根神(あめのこやねのかみ)・保食神(うけちのかみ)・素盞嗚尊(すさのおのみこと))の5神を祭神として祀っています。味耜高彦根神は朝廷と深いかかわりのあった、百済からの渡来人阿自岐氏ではないかといわれています。」
阿自岐神社は、味耜高彦根神を祀るからアジキ神社というのだと思っていました。
実際、滋賀県神社庁のHPには、
「「阿自岐神社」の社名は祭神「味耜高彦根神」の「味耜」の約音であるといわれている。」
と書かれています。つまりアジスキからアジキが付いたということで自然な説です。
しかし、豊郷に来ると、アジキは、渡来人の阿自岐氏からきていると。
そして味耜高彦根神は阿自岐氏のことだということです。
さらに、
「『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「犬上郡豊郷町大字安食西(あんじきにし)に所在。
祭神は、味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・道主貴(みちぬしむち)神・天児屋根(あめのこやね)神ほか3神。式内社。はじめ安食大明神といった。
社伝によると、景行天皇43年犬上君により創立という。明治初年改称(郷社、のち県社)。『延喜式』に「犬上郡七座のうち阿自岐二座」とある古い神社である。
大化改新(645年)後、このあたりにもうけられた安食郷の地名は、応神朝に百済から渡来した阿直岐史氏の居住地に由来するといい、阿自岐神社は、この地にさかえた阿直岐氏族の祖神をまつったものといわれる。
その社域も、阿直岐氏の邸宅跡といわれ、現在の社殿のある所を中心として、東西に構築された池泉多島式の?池庭園は、上古庭園の原型をとどめるもので、県の名勝に指定されている。(浅井喜美)」とあります。」
(レファレンス協同データベースより抜粋)
これによると、景行天皇の時代に犬上君により鎮座したのが始まりらしいが、応神時代に百済の渡来人阿直岐氏が祖神を祀ったのが始まりだというのです。
まず、始まりは景行天皇43年なのか、応神朝なのかという疑問があります。
そして、これによるとアジキは、渡来人の名アジキ氏からきているということになります。
これを信じるなら、百済のアジキ氏の祖神はアジスキタカヒコネということになり、奈良県高鴨の鴨氏は百済人ということになってしまいます。
かなり僕の頭は混乱しました。
出雲の神様が百済からの渡来人だと・・・・
アジスキタカヒコネは、出雲風土記にも書かれていますし、迦毛大御神(かものおおみかみ)として、高鴨神社(奈良県御所市)にも祀られています。
なにより、出雲の大国主命の子であるのです。
もしかして、味耜高彦根と天若彦が同一神だという説を信じるなら、
天若彦は、高天原から葦原中国に遣わされた神です。すなわち渡来系ということにおなります。
そして、大国主命の娘下照姫命と結婚しています。
つまり、天稚彦は大国主命の義理の息子。
渡来人、天稚彦は日本に帰化し味耜高彦根と名を変えたという話になれば、阿自岐神社の祭神が渡来人だというのも繋がりがあるかもしれません。
実際、天稚彦神社と阿自岐神社は2km以内の距離に鎮座しているのですから、意味があるのかもしれません。
だけど、ここだけの話にするなら、それもありかもしれませんが、全国的に見るならちょっと厳しいように思います。
これらの矛盾を解決するには、こう考えるしかありません。
応神天皇以前から、この地には味耜高彦根神を祖神を祀る出雲族が慎ましく住んでいた。
そこに応神天皇時代に百済から渡来人が移り住み、味耜高彦根神の名からアジスキの地という地名で呼ばれていたこの地を自分達の名に取り込み阿自岐氏と名乗ったか、呼ばれていったか・・・
そして、先住民の祖神であり、この地の土地神である味耜高彦根神を自分達の信仰に取り入れ原住民と同化していった。
そして、アジキの地は、渡来人阿自岐氏の手によって大きく拓かれたのではと考えるのです。
僕は、この先住出雲族は、大和から天孫族に追われた人々だと考えています。
応神天皇時代は、大規模の渡来人が日本に帰化したと記されています。
その中には、秦氏や東漢氏がいます。彼らの祖は百済から渡来してきたようです。
もしかすると阿自岐氏の祖も彼らの中にいたのかもしれませんね。
しかし、阿自岐神社社伝による「景行天皇43年犬上君により創立という」のも気になります。
阿自岐二座というので、一座は、応神時代でももう一座は景行時代ということになるのでしょうか・・・
景行天皇は、さらに古いです。
犬上氏は、日本武尊の子孫。日本武尊は景行天皇の子ですから、すなわち犬上氏は景行天皇の子孫ということいなります。
甲良町、多賀町、豊郷町をあわせて犬上郡といいます。「古事記」に、「ヤマトタケルノミコトの子、稲依別王(イナヨリワケノミコ)が犬上君、建部君二つの族の始祖」と書かれています。
歴史とは関係ないですが、今回白鳥を重ねて見たことがメッセージと取るなら、この景行天皇の話も無視するわけにはいきませんが、今はこの謎はお預けとするしかありません。
まだまだ深い謎が埋もれていそうですね。
さて、阿自岐神社の謎解きはここまで、腹ペコのまま帰途につくことにしました。
現在の位置は、近江鉄道の豊郷駅と尼子駅の間くらいですが、帰りは、尼子駅から帰ることにしました。
つづく
前回からの続きです。
勝鳥神社から、次のポイントまでは少し距離があります。
しばし散歩を楽しみます。
少し田んぼの畦道を歩いていましたが、方角を間違えるといけないので、車道へと出て解りやすい道を選びました。
そうこうするうちに豊郷町に侵入です。
この道は、稲枝沢線といいます。
国道8号線を横切り、このまま真っ直ぐ行くと秦荘町へ繋がっています。
秦荘は、その名のとうり秦氏の地です。
つまり、このあたりは渡来系が住んでいた地域なのですね。
そして、南西の方角に大津ということは、その先は京都。
その反対側は福井や北陸つまり日本海側とつないでいる重要な地域だったと考えられます。
さて、次の天稚彦神社は近江鉄道豊郷駅の近くです。
そこまでに沢という地区を通っていくのですが、この地は、その名のとうり水の豊富な地だったようです。
地下水が豊富で灌漑用や工業用に利用していたようです。
しかし、現在は環境の変化により水位の低下で湧き出ることはなくなったそうです。
今は、その名残だけが記念として残されています。
話は飛びますが、誰もが知っていますが、日本ほど水資源にそれも自然に飲める清い水に富んだ国は珍しいといいます。しかし、その反面水の恵みに対する意識の低い民族ではないかと思います。
京都三名水というのがありますが、それも1000年以上にわたって今も湧き出ているのは、染井だけです。
道路工事やおそらく地下鉄の工事で水脈が切れてしまったのだと思います。
この沢の地もそうかもしれません。
今、進められているリニア中央新幹線も86%がトンネルだそうで、その工事では、長野県辺りの日本の大事な水脈に悪影響を及ぼす可能性が高いと聞いています。
我々、日本人は自然を恐れ畏み、その恩恵に預かって生きてきた民族です。
大地の気脈、水脈。これは地龍や水龍として崇拝してきたのです。
それが近代になって、経済のもとに自然を支配していると錯覚するようになりました。
人間社会が自然と離れて生きる、その先には何が待っているのでしょうか?
かつての戦争の原因は石油をめぐる争いであり、これからは水を巡る争いになると予言する人もいます。
戦争といわずとも、清涼で豊かな水資源を狙って経済の亡者は日本に進出してくることも予想されます。
我々は、その時に意識を持って大事なものを守ることができるのでしょうか?
そんなことを感じながら、沢の地区を後にしました。
さて、いよいよ今回のメインの一つ、
天稚彦神社です。
大きな神社なのですぐわかりました。
御祭神は、天稚彦命 大国主命 事代主命
配祀神に、大山咋神 大物主命 加具土命 下照姫命 菅原道眞公
第四十九代光仁天皇天応元年(781年)十一月に創建されたようです。
神代の昔、天稚彦命は神々と共に当地にお立ち寄りになった時、風光明媚な日枝の庄を大変称賛されたので妃の下照姫命が天稚彦命の御遺体を此の地に葬られたのが創祀の始まりと伝えられています。
つまり、ここが天稚彦命の墓地でもあるということになりますね。
天稚彦は謎の神です。
天稚彦は、天津神。すなわち高天原に住む神でありながら、大国主の支配する地上を征服するために下った神です。しかし、天稚彦は、征服どころか大国主の娘の下照姫と結婚し、大国主の国に馴染み暮らしてしまったのです。
その裏切りによって殺されてしまった神と神話では伝えられています。
しかし、事実は少し違うような感じがします。
先ほど偶然にもお参りした同じく天稚彦命を祀る勝鳥神社には、「美濃の国での戦いで亡くなられた天稚彦命のなきがらを下照姫命の兄が三津にほおむり勝鳥石をたてたと語り伝えられている。」と伝わっているようです。
(神奈備「天稚彦神社」参照)
天稚彦は出雲ではなく、美濃で戦死したということになります。
美濃には、天稚彦神話にちなむ地があります。
美濃国の藍見川(岐阜県美濃市極楽寺・神笠付近を流れる川)の上流にある喪山(岐阜県美濃市極楽寺・神笠付近の山)がそれです。
岐阜県喪山神社には、天稚彦が祀られているようです。
「歌語り風土記より
むかし天稚彦あめのわかひこ(天若日子)は、ある日、庭先の不審な雉子を矢で射ると、その矢が天から戻って来てその返し矢に当たって死んだ。妻の下照姫したてるひめの泣き叫ぶ声は天まで響いたといふ。葬儀のとき、下照姫の兄の味鋤高彦根あぢすきたかひこね神が喪屋を弔ふと、高彦根神は死んだ天稚彦と容貌がよく似てゐたので、天稚彦の親族は、天稚彦が生き返ったやうだといった。さういはれた味鋤高彦根神は、死人と間違へられたことを怒り、喪屋を足で蹴飛ばすと、喪屋は空を飛んで美濃国の藍見川の川上に至り、それが今の喪山(美濃市大矢田)であるといふ。喪山にまつられてゐた喪山天神社(祭神・天若日子命)は、北方の天王山の麓の楓谷の大矢田神社(牛頭天王社)の境内社として移転された。楓谷にはヤマモミヂ樹林がある。」
(家族レシピ~面倒な家族を味方にする3ステップ「喪山神社(岐阜県美濃市)225」より転記)
ちょっと、話が混乱しそうですが、
神話では、天稚彦が死んで葬式の時、下照姫(天稚彦の妻)の兄である味鋤高彦根が喪屋を訪れた時に、味鋤高彦根が、天稚彦と似ていたために、天稚彦と間違われました。死人と間違えられ怒った味鋤高彦根が蹴とばした喪屋が喪山神社になったということです。
元々、葬式の時に喪屋には天稚彦を弔っていたので、それが落ちてきたということは、そこに天稚彦を祀るということは不思議でもないですが、現実にそのようなことはないため、これは何かの喩えであると考えるの自然です。
つまり、天稚彦はなんらかの原因で美濃で亡くなった。
そして、この話に出てくる味鋤高彦根を祀る阿自岐神社へ、この後訪れることになります。
そっくりだったという天稚彦と味鋤高彦根は同一神だという説もあります。
その前に、天稚彦神社をお参りしておきます。
本殿は、改装中みたいです。
境内社のお稲荷さんと、
愛宕神社。
愛宕神社の鳥居がめちゃくちゃ低いです。
かがんでお参りしないといけません。
この低い鳥居をきつい体勢で潜ってこそご利益があるということらしいです。
ここは、火伏の神。年末に糸魚川で大火事があったところなので、お参りしておきました。
つづく
前回からの続きです。
20号線を愛荘町の方へ東に向いて進みました。
線路を越え稲枝駅の下りた反対側の駅口に出ましたが、こちらの方が開けております。
どこかで昼食を取りたいところですが、まだお正月の2日ですので、あまり飲食店も開いておりません。
なので、まっすぐ豊郷へ向かって歩きました。
しばらく歩くとこんな表示が、
ちょっと看板が傾いておりますが、
5世紀前半から6世紀前半に作られた古墳があるとか。
塚乞手(つかこいで)周溝遺跡というようです。
ちょっと道を外れて寄り道してみようと思うと、脇道にこんな石碑も
肥田城というのがあったようです。
城跡はすぐのところにありました。
戦国時代、六角氏の名によって築かれたようです。
ここには山王祠というのがありました。
肥田城の守護神として日吉の神を祀ったようです。
すぐそばには宇曽川が流れています。
川沿いには、万葉歌碑がたっていました。
宇曽川はとても綺麗な川でした。
この川は琵琶湖の河口あたりで荒神山とも繋がっています。
サイクルロードがそこまで整備されていています。
少し川沿いに上に歩き、橋を渡りました。
この辺りは、歴史散歩ができるスポットのようです。
改めて歩きたいところですね。
高橋を渡ります。
橋を渡って少し歩くとある神社の案内が見えました。
名を勝鳥神社といいます。
偶然ですが、今年は酉年。これは縁起が良さそうなので、寄ってみることにしました。

小さな神社ですが、結構お参りされていました。
やっぱり酉年の神社なんですね。
後で知ったのですが、今年のように酉年には、他県からもバスツアーで参拝客が沢山こられるようです。
そういえば、この日もバスが停まっていました。
これもあとで知ったことですが、ご祭神は、天稚彦。
これから行こうとしている天稚彦神社と関係深い神社でした。
見過ごすところでしたが、お参りできてよかったです。
御祭神:天稚彦命
配祀神:大国主命 事代主命 大山咋命
御神紋:鶏
御由緒
「創建年代不詳。もと豊郷町高野瀬の天稚彦神社の仮殿として天稚彦社と称したが、明治十一年勝鳥神社と改称」
つづく
前回からの続きです。
稲部遺跡はどんな人が住んでいたのか・・・・
現地周辺を歩いてなにかイメージを得られるものはないか?
遺跡近くの神社を探すことにしました。
この辺りは田畑ばかり、すぐ近くというわけにもいかず、地図で見る範囲で一番近そうな神社を目指しました。
その名は、彦留神社です。
稲部遺跡から、まずは南側の駅へ向かって移動しました。
駅前は、やはり開発が進んで住宅化していってます。
そのあと、広い道を北西に向かって歩くと彦富町の交差点を通りました。
この辺りを彦富町といいますが、神社の名前は彦留神社。
実は、元々は彦留村だったのが、明治13年に彦富村に変わったそうです。
ほぼ北の方角には荒神山が近づいてきました。
彦留神社の手前にはお寺があります。
割と目立つ立派なお寺で初詣客もそこそこおられました。
成田山明王寺というらしいです。
ここを越えてすぐに彦留神社は鎮座しておりました。
この辺り、結構水路が巡らされていました。
彦留神社です。
御祭神は、彦留亥大神
配祀神に猿田彦命、大山咋命
「「宝暦社堂帖」彦富村の条に「亥大明神一丈八尺一村の産土神也」と見ゆ。社伝では延暦年間の創祀で後二条天皇の時、伴主計頭なるもの神仕すと伝える、徃古大祭には「カントウ」の神事を行っていたが、元亀兵火後は復旧せず、現在は渡御を行うのみである。明治九年十月村社に加列す。」
亥大神て初めて目にしました。
ここの産土神らしいですが、どんな神様なんでしょうね?
仏教では、十二神将がそれぞれ十二支に充てられて亥の神がいますが、ここは神社ですからね。
「世界大百科事典内の亥の神の言及
【田の神】より
…水稲農耕を主とする日本では民族信仰として農神をまつる習俗は古くからあり,記紀には稲霊(いなだま)の〈倉稲魂(うかのみたま)〉や穀神の大歳神(おおとしのかみ)の名がある。
民間では,この農神は一般に田の神というが,東北地方では農神(のうがみ),山梨・長野で作神(さくがみ),近畿で作り神,山陰東部で亥の神(いのかみ)などとも呼ばれる。
東日本ではえびす,西日本では大黒を田の神と考える地方が多く,漁業神・福徳神とは別の信仰となっている。…」
田の神を山陰東部では亥の神と呼ぶそうです。
山陰東部といえば出雲辺りと見て良いでしょうかね・・・
亥の子祭りというのが西日本であるようですが、これは猪に倣って多産を祝うお祭りのようです。
農耕神で、子宝の神というと幸神を思い出してしまいます。
配祭神に猿田彦神を祀っているのも幸神に繋がります。
もう一柱の大山咋神が祀られているのは、明治44年に日吉神社が合祀されたからだと想像できます。

明王寺と違ってこちらは参拝客はいませんでした。
なので静かにお参りできました。
七福神がいて、お正月からなんだか縁起が良さそうですね。
亥の神は、田の神だと先ほど書きましたが、ここの彦留亥大神は、近江守護職佐々木京極氏の崇敬を集めたため武神として信仰されたようです。
お参りを済ませると来た道を帰ることにしました。
稲部遺跡との繋がりを探すつもりでしたが、この近くで目を引く神社は見当たりませんでした。
ということで、ここよりもう一つ、以前より行きたかった豊郷の神社を巡ることにしました。
もしかすると稲部遺跡の住人とも関係あるのかもしれませんが、どうでしょうか?
つづく
あけましておめでとうございます!
昨年は、一度も更新できませんでした。
にもかかわらず、毎日閲覧者が複数来られていることに大変うれしく感じております。
しかしながら、そういった読者の期待に応えられずに一年が過ぎた次第です。
いくつか興味を覚えた地があり、地図を用意していたもののなかなかタイミングが合いませんでした。
そんな中、昨日はとても良い天気に恵まれたので、その地図を出してきて家を飛び出しました。
行く先は、稲枝です。
では、久しぶりに散策の記録を報告させていただきます。
ただ、あまりキーボードを叩く余裕がないので、更新はゆっくりになると思います。
そして、かの地は思っていたより難しいところでした。
なかなか、まとめることができない報告になるかと思いますが、ご容赦願います。
さて、昨年あるニュースが記事になりました。
「滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。
一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規模な同時代の建物跡が確認されている。
「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。福永伸哉・大阪大教授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」と話す。」
毎日新聞2016年10月17日の記事です。
要するに、邪馬台国の時代に近江に大きな国が存在していたということです。
近江には、他に、邪馬台国近江説があるくらい大きな遺跡が見つかっております。
邪馬台国ではないにせよ、有力な国が存在していたことは間違いなさそうです。
稲部遺跡は、JR稲枝駅から歩いてすぐの場所にあります。

(地図は、平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」より転載)
駅をおりても田園が広がる地区ですが、ここに弥生時代の大きな国が存在し人々が生活していたことになります。

駅前は、新しい住宅地に変化してきております。
元は田畑だったのを開拓して住宅地になってきているようでした。
遠くに荒神山が見えるのが印象的でした。

この稲枝地区の遺跡について彦根市埋蔵文化財報告書から一部抜粋解説しておくと以下のとうりです。
「稲枝地区の遺跡を見ると、山腹および山麓に立地するもの、河り|1自然提防上に立地するもの、沖積地の微高地上に立地するものの3タイプに大きく分けられる。
このうち、弥生時代の遺跡として知られているものは、曽根沼遺跡・稲里遺跡・上岡部B遺跡・金田遺跡等沖積地の微高地上に立地するものである。
古墳時代の遺跡は、集落跡と考えられるものは弥生時代の遺跡と同様の立地を示し、ほとんど弥生時代の遺跡と複合していると考えられる。また、古墳は大部分が荒神山とその周辺に集中し、平地に立地するものは、出路遺跡・狐塚遺跡等が知られている。奈良時代については、東大寺荘園絵図で知られる覇流荘と言われる曽根沼遺跡がある。仏教関係の遺跡は、自鳳時代の寺院跡は複弁蓮華文軒丸瓦等古瓦の出土が知られる岡部町の屋中寺廃寺と普光寺町の普光寺廃寺が有り、奈良時代から平安時代にかけてのものは、行基創建と伝えられる延寿寺遺跡や平安時代初期創建と言われる国昌寺遺跡0他に宝山寺遺跡等があげられる。
中・近世の城館跡としては、高野瀬隆重築城と伝えられる肥田町肥田城遺跡やこの肥田城遺跡に属すると言われる三津町越川城遺跡があり、また、三津屋町三津屋城遺跡が上げられる。」
以上、ここの調査はまだまだ未開のようであり、これから大きな発見があるかもしれません。
はっきりした遺跡の場所は把握していなかったのですが、少し歩いているとすぐにわかりました。


今も発掘調査は続いているのでしょうか・・・
でも、今はお正月でお休みです。
人影のない遺跡を道なりに歩いてみました。


荒神山が遠くに見えます。
多分、当時もあの山は聖地だったのだと思います。
古墳が集まっていますから。


田んぼの真ん中にこの遺跡はあります。
もし田んぼをひっくり返すといろいろと発見があるかもしれません。
この国の住人はどんな人々だったのでしょうか?
何か想像できる手がかりはないのでしょうか?
一つは、荒神山との繋がりが見えるので同じ信仰を持った人々がいたのでは?
という想像もできるのですが、なかなか僕の頭では結論は出ません。
そして、万が一、そのヒントが見つからないかと今回の散策は始まりました。
つづく
昨年は、一度も更新できませんでした。
にもかかわらず、毎日閲覧者が複数来られていることに大変うれしく感じております。
しかしながら、そういった読者の期待に応えられずに一年が過ぎた次第です。
いくつか興味を覚えた地があり、地図を用意していたもののなかなかタイミングが合いませんでした。
そんな中、昨日はとても良い天気に恵まれたので、その地図を出してきて家を飛び出しました。
行く先は、稲枝です。
では、久しぶりに散策の記録を報告させていただきます。
ただ、あまりキーボードを叩く余裕がないので、更新はゆっくりになると思います。
そして、かの地は思っていたより難しいところでした。
なかなか、まとめることができない報告になるかと思いますが、ご容赦願います。
さて、昨年あるニュースが記事になりました。
「滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。
一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規模な同時代の建物跡が確認されている。
「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。福永伸哉・大阪大教授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」と話す。」
毎日新聞2016年10月17日の記事です。
要するに、邪馬台国の時代に近江に大きな国が存在していたということです。
近江には、他に、邪馬台国近江説があるくらい大きな遺跡が見つかっております。
邪馬台国ではないにせよ、有力な国が存在していたことは間違いなさそうです。
稲部遺跡は、JR稲枝駅から歩いてすぐの場所にあります。

(地図は、平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」より転載)
駅をおりても田園が広がる地区ですが、ここに弥生時代の大きな国が存在し人々が生活していたことになります。
駅前は、新しい住宅地に変化してきております。
元は田畑だったのを開拓して住宅地になってきているようでした。
遠くに荒神山が見えるのが印象的でした。
この稲枝地区の遺跡について彦根市埋蔵文化財報告書から一部抜粋解説しておくと以下のとうりです。
「稲枝地区の遺跡を見ると、山腹および山麓に立地するもの、河り|1自然提防上に立地するもの、沖積地の微高地上に立地するものの3タイプに大きく分けられる。
このうち、弥生時代の遺跡として知られているものは、曽根沼遺跡・稲里遺跡・上岡部B遺跡・金田遺跡等沖積地の微高地上に立地するものである。
古墳時代の遺跡は、集落跡と考えられるものは弥生時代の遺跡と同様の立地を示し、ほとんど弥生時代の遺跡と複合していると考えられる。また、古墳は大部分が荒神山とその周辺に集中し、平地に立地するものは、出路遺跡・狐塚遺跡等が知られている。奈良時代については、東大寺荘園絵図で知られる覇流荘と言われる曽根沼遺跡がある。仏教関係の遺跡は、自鳳時代の寺院跡は複弁蓮華文軒丸瓦等古瓦の出土が知られる岡部町の屋中寺廃寺と普光寺町の普光寺廃寺が有り、奈良時代から平安時代にかけてのものは、行基創建と伝えられる延寿寺遺跡や平安時代初期創建と言われる国昌寺遺跡0他に宝山寺遺跡等があげられる。
中・近世の城館跡としては、高野瀬隆重築城と伝えられる肥田町肥田城遺跡やこの肥田城遺跡に属すると言われる三津町越川城遺跡があり、また、三津屋町三津屋城遺跡が上げられる。」
以上、ここの調査はまだまだ未開のようであり、これから大きな発見があるかもしれません。
はっきりした遺跡の場所は把握していなかったのですが、少し歩いているとすぐにわかりました。
今も発掘調査は続いているのでしょうか・・・
でも、今はお正月でお休みです。
人影のない遺跡を道なりに歩いてみました。
荒神山が遠くに見えます。
多分、当時もあの山は聖地だったのだと思います。
古墳が集まっていますから。
田んぼの真ん中にこの遺跡はあります。
もし田んぼをひっくり返すといろいろと発見があるかもしれません。
この国の住人はどんな人々だったのでしょうか?
何か想像できる手がかりはないのでしょうか?
一つは、荒神山との繋がりが見えるので同じ信仰を持った人々がいたのでは?
という想像もできるのですが、なかなか僕の頭では結論は出ません。
そして、万が一、そのヒントが見つからないかと今回の散策は始まりました。
つづく
先日、大津市歴史博物館主催の「保良宮と近江国府」という講座に参加してきました。
講座の内容は、七色堂にアップしております。
近江国府跡は以前に訪れたことがあるので、保良宮跡へ行ってみようと考えました。
しかし、この保良宮・・・まだ、どこにあったのかはっきりとわかっていないのです。
とは言え、その遺跡だとされているものは残っており、そこを巡ってみようと思います。
ちょうど、これは僕の地元の地域なので気軽に歩ける距離なのです。
GW中の散策を計画していたのですが、
昨日、散髪に行ったついでに一つのポイントが近くにあるので足を向けてみました。
この日の最初のポイントは、将軍塚です。
大津市美崎町。国道一号線沿いにあるスーパーマツヤの裏辺りにあると情報を得て行ってみました。
住宅地の中、住居に囲まれた場所にありました。
解りにくいです。
久しぶりの散策なのか感も鈍り、かなり彷徨いました。
これが、将軍塚です。
将軍塚は、壬申の乱の敗者大友皇子側の将軍が葬られた場所だと伝えられています。
近くには、茶臼山という山もありそこは、大友皇子とその侍臣および大友皇子の子、大友与太王の葬り塚があります。
しかし、大友皇子の時代は保良宮より前です。
壬申の乱、672年
保良宮、761年
この将軍塚がなぜ保良宮と関係しているのかというと・・・
草ぼうぼうの塚には大きな石があって、それが保良宮の礎石だというのです。
このヘソのようにポッチリがある石がその礎石です。
このタイプはこの時代にしかみられないため、時代が特定できるそうです。
保良宮跡はまだ発掘できていませんが、礎石はいくつか見つかっています。
今回は、その礎石を巡ってみることにしました。
美崎町から真南の国分町へ下っていきます。
西側は山です。東側は琵琶湖になるのですが、
この東側のJR石山駅辺りが保良宮があったのではないか・・・と考えられているようです。
もしかすると、その保良宮の西の際に沿って歩いたことになるかもしれません。
ちょうど東レの敷地の間を通る形です。
今回は、地元ということと散髪屋の帰りということで、地図を持たずに歩きました。
方向感覚はありますが、さすがに迷います。
同じところを行ったり来たりしました。
松尾芭蕉の住んだ幻住庵を目印に向ったのは、近津尾神社です。
なんとなく見覚えのある道を歩いていると鳥居が見えました。
鳥居の横はバス亭になっています。
しかし、参道はすぐに途切れ住宅地の中・・・・
仕方なく、そのまま歩き進みました。
突き当たり、二つに道が分かれます。
幻住庵か太子堂か・・・?
幻住庵は行ったことがあるので、太子堂へ行ってみました。
太子堂は丘の上、結構急な階段を登ります。
久しぶりに心臓がバクバクしました。
「聖徳太子二歳像を安置する。この像は元享元年(1321年)法眼宗圓の作といい、もとは京都府八幡の石清水八幡宮に安置されていたもの。明治2年に神仏分離令により五代目真田武左衛門により国分に移された。」
登り道は少し鬱蒼としていましたが、
上は明るい場所でした。
見晴らしも良いです。
琵琶湖や対岸の三上山が見えます。
この眼下に保良宮は築かれていたのかもしれません。
もう散っていましたが、季節には桜も綺麗だと思います。
ピンクの花びらが地面を染めていました。
今は、藤の季節です。
太子堂から戻ると、
さて、近津尾神社はどこでしょう・・・?
また、鳥居まで戻り、うろちょろしていたのですが、
地元の方が居られたので尋ねると・・・
なんと、幻住庵と同じ場所にあるとか。。。
また、同じ道を戻りました。
幻住庵を目指し山の中を歩きました。
芭蕉が炊事に使った「とくとくの清水」は今も涌いています。
もうすこし上がると神社がありました。
思ったより立派な神社です。
御祭神は、誉田別尊です。
八幡さんで有名な応神天皇のことですね。
「明細書によると、創立年代は不詳であるが、石山寺記録中之巻三によると承安三年後白河院石山寺へ行幸された際、石山寺座主公祐僧都命を受けて勧請、石山寺祈願寺と奉崇すとある。」
後白河法皇が絡んでいるのですね。
そして石山寺と関係あるので立派なのかもしれませんね。
本殿の横には、境内社があります。
明治四十二年に合祀された国分新田の洞神社、雨壷神社です。
今回のお目当ては、この洞神社です。
洞は保良宮のホラからきているということです。
地名の名残です。
御祭神は、高龗神。山の水の神です。
雨壷神社は、天水分神。
いずれも水の神様です。
先ほどの「とくとくの清水」に見られるようにこの山は水が豊富なんですね。
社務所の前あたりから、さらに上にある幻住庵に続きます。
しかし、現在、災害のため公開中止となっていて入ることはできません。
山を降りると神社の表参道に出てきます。
こういうことになっていたのですね。
今回は、ほんとに無駄足が多いです。
ここから、次のポイントへ向うのですが、頭の中の地図が勘違いしており、随分と違う道を進んでしまいました。
明らかにおかしいので、さすがにスマホを取り出し場所を確認。
なんと、また同じ道を戻りました。
幻住庵の前の道を真っ直ぐ南に進めば良かっただけでした。
トホホ・・・です。
そのポイントもまた、見当違いを探して苦労しました。
場所は、道沿いの民家の角にありました。
「へそ石」といいます。
半分、地面に埋まった保良宮の礎石だそうです。
ただし、この石は使われなかったと考えられています。
この「へそ石」の向かい先ほどの幻住庵から続く山がありまして、
この山中にも礎石が転がっているそうです。
また、ここには保良宮跡の石碑が立っているそうですが、
この地に宮があったとは地形からも考えにくく、礎石の加工場か採掘場だった可能性があるようです。
残念ながら、山の中に入る道がわからずそこへは行きませんでした。
以下の画像は、滋賀県文化財保護協会さんのHPから転載させていただきます。

さて、お目当ては達成できました。
予定外に歩いたので足はクタクタです。
石山駅まで出て電車で帰宅することにしました。
その道中、もう一つ礎石がある場所があります。
北大路町の西方寺内です。
このお寺の釣鐘銅の石に礎石が使われてるとか・・・
残念ながら、お寺の門は閉まっていて勝手に入ることはできませんでした。
多分、この釣鐘の下にあるのかな?
見ることができないので、先ほどの滋賀県文化財保護協会さんのHPからまた転載させていただきます。

やはり、この出ベソの石が特徴なんですね。
もしかして、今日歩いた住宅の庭とか、林の中とかにしらずに置き去りにされていたら面白いな・・・
と、キョロキョロしがなら歩きました。
久しぶりの散策はクタクタです。
いつものように酒場へ出向く力は残っていませんでした。
おわり