2022年06月30日    小野づくし1

長い間、更新できませんでした。
本当にお久しぶりです。
今回の地域は、和邇と小野です。
実は、最初、安曇川まで行くつもりだったのですが、近江舞子止まりの電車に乗ってしまって、途中で乗り換えないといけなかったのですが、ボケていました。
で、急遽、和邇駅で下車しました。
まったくのノープランでの古代ウォークとなりました。

小野づくし1



和邇と書いて、ワニと読みます。
古代史に興味のある方なら和珥氏の名でご存知の方もいらっしゃると思います。
その和珥氏の由来がこの地となっています。



日本大百科全書(ニッポニカ)「和邇」の解説

和邇
わに

滋賀県西部、大津市の一地区。比良(ひら)山の南東麓(ろく)、和邇川流域にあり、東は琵琶(びわ)湖に面する。
地名は古代の和邇氏に由来し、和邇荘(しょう)の地で、『延喜式(えんぎしき)』に和邇駅の名もみえる。
近世は西近江(おうみ)路の宿場が設置された。
南部の小野には小野篁(たかむら)神社や小野道風(とうふう)神社、小野妹子(いもこ)の墓と伝える唐臼山古墳がある。国道161号が通じ、湖西道路和迩(わに)インターチェンジがある。
また、JR湖西線和邇駅もある。湖岸には水泳場があり、夏のリゾート地としてにぎわう。

小野づくし1


駅の地域マップで観光ポイントを確認すると、隣の小野駅に戻る形で歩いていくと、小野神社とか古墳群があったりとか古代の匂いがしてきます。
散策ルートも表示されているので、それに沿って歩いてみることにしました。
小野という地は、小野氏の本拠地ですが、この小野氏は、和珥氏の枝氏だそうです。
和珥氏の本拠地は、大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡らしいので、近江の和邇は、和珥氏というより小野氏の地なのかもしれないと思いました。


古代、「和邇腹」とか「息長腹」と呼ばれる天皇家に后を嫁がせる家系があり、和邇腹は、この和珥氏のことで、息長腹は、息長氏のことでした。
和珥氏は、第5代孝昭天皇の長男「天足彦国押人命」(記では天押帯日子命)を祖としており、この氏族からは、柿本人麿の柿本氏、小野妹子、小野小町、小野道風などで有名な小野氏、山上憶良の山上氏、粟田真人の粟田氏、石上神社社家の布留氏、など歴史上活躍する人材を輩出しています。
また、浅間(あさま)神社(山梨県東八代郡一宮町)、富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)など関連神社が有名であり、中でも富士宮市の浅間神社は和邇部氏が社家として「和邇氏系図」として最も古くからのものを伝えているそうです。

朝廷では、埴輪などの祭祀土器製作集団を率いて、山稜の管理、古墳埋葬者の事績の語り部的役割を持っていたらしく、元々は「春日」氏と呼ばれていましたが、その後和邇姓となり、第29代欽明天皇頃からまた春日姓に改姓されたとも言われているそうです。(「和邇氏考」参照)


というわけで、まずは小野神社に足を向けました。
ちょうどこの日に、近畿も梅雨明けしたとかで強い日差しを受けてのウォークになりました。

小野づくし1
お弁当の配達サービスをされているお店がありました。
こういうサービスはありがたいですね。

また、美味しそうなお魚のお店も。
小野づくし1


若狭直送というのがそそられますね。
滋賀は海がありませんが、このまま北上すると日本海ですから、流通が機能すれば新鮮なお魚も食べられます。


暫く歩くと和邇公園に行きつきました。
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その横に和邇川が流れています。
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川に沿って少し上り、左手の森の中に小野神社が鎮座されていました。

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参道を歩くと
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二種類の樹、椎の木が檜の木を抱いて和合していますね。


反対側には、こんな木が、
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さて、由緒ある小野神社です。
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「祭神
天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)
米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)

御由緒
 小野神社は小野一族の祖であると共に餅及菓子の匠・司の始祖である第五代孝昭天皇の第一皇太子天足彦国押人命と同命から数えて七代目の米餅搗大使主命の二神を祀る。

 今から1100年前の延喜式の神名帳に滋賀郡第三座の内小野神社二座、名神大社(官幣大社の意)とある古社である。

 古事記によれば天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連(むらじ)の娘余曽多木比売との間にお生まれになった第一子皇子で春日、大宅、粟田、小野、柿本、大坂、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯高、一志、近江の国造の祖であると記されている。

 また日本書紀には大和朝廷成立以前にこの地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた名族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発祥地、祖神でもある。」

小野づくし1


参道正面に見えていたお社とは別に、その横に鎮座しているのが小野神社です。
なので、アプローチとしては、まっすく進まずに横道を登っていきます。
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この参道右に小野小町の塔があります。
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小野づくし1

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小野小町は、小野篁の孫とか、娘だとか・・・
本名は、小野吉子だとか。。。
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小野神社です。
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その横に、小野神社より大き目のお社があります。

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≪摂社≫ー学問・使節の神

小野篁神社(祭神・小野篁命)

 「平安前期(西暦802年〜852年)、参議岑守(みねもり)の子、漢学者、歌人。西暦834年遣唐副使を命じられ、836年に出発。しかしこの度は暴風雨にあって遣唐使の目的を断念する。838年再度、遣唐副使に任じられたが大使藤原常嗣との折り合いが悪くなり渡唐をとりやめる。この時、「西道謡」を作って遣唐の役を風刺したため、嵯峨上皇によって篁は隠岐島へ蟄居される。三年後許されて帰京、昇進を重ねて参議、従三位となる。「参議」は太政官の官名、政務審議の構成員で大、中納言に継ぐ要職である。

 篁は漢詩文にすぐれ勅を奉じて「令義解」の撰進に参加している。篁の詞は「経国集」「和歌朗詠集」「扶桑集」「本朝文枠」に収められ、和歌は「古今集」に六首。「篁日記」は後人の作で、篁の歌を中心とした歌物語である。野相公、野宰相ともよばれている。

 百人一首に「わたのはら八十島かけてこぎいでぬと人に告げよあまのつりぶね」の歌があり、境内には歌碑が建立されている。

 社殿は祭神の古墳上にある。建物は旧国宝、現在重要文化財である。」

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小野篁というと、夜になると京都の六道珍皇寺の井戸から地獄に降りて閻魔大王のお手伝いをしていたという伝説が残っている方ですね。


その横には、八幡神社と松尾神社。
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​それらにお参りして、今度は正面の参道を下りていきました。
出口付近には、御神田に田植えがなされていました。
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稲作を大事にされている神社は良いですね。
現代では、土地の関係上御神田を持っている神社は多くないでしょうが、稲作への信仰も神道の大切な柱だと思います。ゆえに天皇は、自ら田植えをして収穫をされるわけです。

森の中はまだ涼しいのですが、また強烈な日照りの中でウォークは続きます。
用意していたミネラルウォーターで喉を潤し、長袖のパーカーで、頭と肌を隠して太陽の下に歩き出しました。


  つづく







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Posted by 柚子木琴火 at 14:27 │Comments( 0 ) 街歩き 和邇、小野 湖西
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