もう我が家の年間行事化している両親を連れての紅葉狩りです。
老齢の両親を連れているため、ウォーカーではありませんが、最近は古代近江ウォークもしておりませんので、記録しておきます。
今回の目的地は、八日市です。
八日市は、以前歩いたことがある町でなかなか歴史の古い町でありました。
詳しくは、以前の記事を参照してください。今回訪れた瓦屋禅寺のことにも触れております。
さて、その瓦屋禅寺は紅葉の穴場と呼ばれており、これまた紅葉狩りのスポット太郎坊の奥に位置しております。
八日市の町から長い石段を登っていくのですが、今回は車でお寺までアクセスしました。
駐車場からのアプローチですでに紅葉が迎えてくれます。




今回の目的は、紅葉狩りなので歴史考察は省いて、目にしたことを画像中心にご紹介したいと思います。

「瓦屋禅寺の歴史
当山の歴史は1,400年以上前に遡ることに成ります。寺伝曰く聖徳太子が山中の土を用いて瓦を106,000枚から108,000枚造らせて摂津(大阪)四天王寺建立の際にその瓦を用いたのが寺名の由来とされるます。
瓦屋寺(かわらやじ)の名は聖徳太子より賜り、本堂中心の十一面千手千眼観世音菩薩立像(旧国宝・現国重要文化財指定)、四天王像四体(東近江市文化財指定)、地蔵菩薩座像は寺伝によると聖徳太子御作とされ貴重な宝物です。
源仁により再興され華厳宗の東大寺の末寺であり一山四十八坊を抱える大寺として隆盛を極め、比叡山延暦寺の関係で天台宗時代もありましたが、永禄年間に織田氏の兵火に罹災し、惜しくも堂宇は悉く消失してしまいました。その後80年程の間は荒廃し世の無常さを感じさせましたが、江戸初期(正保年間)に奥州松島瑞巌寺中興雲居禅師が市内に伊達藩の飛び地があった関係で、高弟の香山祖桂禅師がこの古刹瓦屋寺の衰退を嘆き再興を誓い雲居禅師の篤志者であった八日市福原茂右衛門を願主に小堂を建立、梵鐘を吊って臨済宗妙心寺派の一寺として「瓦屋禅寺」が中興されました。
香山祖桂禅師は27歳より74歳で亡くなるまで50年近くも当寺の中興事業にご精進されて四方より修行僧が訪れその教えが広く伝わり、延宝年間には越後十日町(現新潟市)の水野五右衛門の篤志で本堂の再建し、諸堂が整備されたとされます。
現在は平成30年4月国登録文化財として本堂・庫裡・地蔵堂・開山堂・経堂・賓頭盧堂・鐘堂の七棟が指定されます。」
最初に目にしたのは、これ。

僕がツイン地蔵と名付けている、並んでいる仏様の石仏。
僕は、これは古代出雲族の信仰していた幸神信仰の名残だと思っています。
近江は、出雲とも関係が深いのは以前より述べてきたし、その名残をここでも紹介してきました。
そして、この瓦屋禅寺でもその名残を確認することになりました。
順に紹介いたします。



本堂が見えてきました。

本堂は茅葺の渋いお堂です。



穴場と言われるだけあって、静かで落ち着いた空気が流れています。
吞兵衛のビンヅルさん。衆庶を救うも酒だけはやめられなかったとか・・・僕も好きな羅漢さんです。

さらに僕の崇拝する地蔵さま


その奥には祠が祀られていました。
何を祀っているのかは、確認できませんでした。

祠の周りに水を配して祀る、いわゆる弁天さんの様式です。
僕は、このスタイルはヒンズー教のシヴァリンガまたはリンガンヨニと呼ばれるシンボルと同じだと考えています。

画像のお婆ちゃんが水を注いでいる部分が、池の部分で、中心のヨニと呼ばれる突出した柱の部分が祠にあたります。
このリンガンヨニは、アジアの寺院で見られます。

後で、もっとはっきりしたリンガを見られますので、まずは紅葉狩りを楽しみましょう。

全体的にみると、まだ青い紅葉や黄色いのが残っている中で、鐘撞堂の紅葉が一番赤が綺麗でした。



母は、地面に散っている綺麗な赤い葉をいくつか拾っていました。
年老いても、こういったしぐさをするのは、いくつになっても女性なんですね。
僕も綺麗な葉を探して母に渡しました。
本堂から少し高手に経堂はあります。


経堂から見下ろす本堂も美しいです。

さて、本堂の下の道を少し歩きました。

これもある意味、リンガですね。

四角いリンガもあるようですからね。

先ほど、はっきりリンガンヨニが見れると言いましたが、それがこれです。

三尊像の立っている台座は、まぎれもなくリンガでしょ。
ほら、これと同じです。

ヨニに三尊像を刻んでいるだけです。
そして、三尊像とは、もしかすると幸神三神を意味しているのかもしれません。
古代出雲族が信仰していた幸神三神は、父母子の三神で構成されています。
特に古代日本では、その中の母神、つまり女神信仰が強かったようです。
現在も日本の最高神、天照大神が女神なのもその名残です。
そういった意味でもう一つ興味を惹かれる祠はありました。

子を抱く母の像です。

これが誰なのかわかりませんが、その意味は母子の信仰なのは間違いないと思います。
全く想像していなかった瓦屋禅寺での発見でしたが、現代も形を変えて古代日本の魂の名残が見ることができます。
すでに日本人の精神を忘れてしまった現代人。日本の魂をなくした我々はいったい何人なんでしょうか?
時には、古代に思いを寄せることも必要ですね。
老齢の両親を連れているため、ウォーカーではありませんが、最近は古代近江ウォークもしておりませんので、記録しておきます。
今回の目的地は、八日市です。
八日市は、以前歩いたことがある町でなかなか歴史の古い町でありました。
詳しくは、以前の記事を参照してください。今回訪れた瓦屋禅寺のことにも触れております。
さて、その瓦屋禅寺は紅葉の穴場と呼ばれており、これまた紅葉狩りのスポット太郎坊の奥に位置しております。
八日市の町から長い石段を登っていくのですが、今回は車でお寺までアクセスしました。
駐車場からのアプローチですでに紅葉が迎えてくれます。
今回の目的は、紅葉狩りなので歴史考察は省いて、目にしたことを画像中心にご紹介したいと思います。
「瓦屋禅寺の歴史
当山の歴史は1,400年以上前に遡ることに成ります。寺伝曰く聖徳太子が山中の土を用いて瓦を106,000枚から108,000枚造らせて摂津(大阪)四天王寺建立の際にその瓦を用いたのが寺名の由来とされるます。
瓦屋寺(かわらやじ)の名は聖徳太子より賜り、本堂中心の十一面千手千眼観世音菩薩立像(旧国宝・現国重要文化財指定)、四天王像四体(東近江市文化財指定)、地蔵菩薩座像は寺伝によると聖徳太子御作とされ貴重な宝物です。
源仁により再興され華厳宗の東大寺の末寺であり一山四十八坊を抱える大寺として隆盛を極め、比叡山延暦寺の関係で天台宗時代もありましたが、永禄年間に織田氏の兵火に罹災し、惜しくも堂宇は悉く消失してしまいました。その後80年程の間は荒廃し世の無常さを感じさせましたが、江戸初期(正保年間)に奥州松島瑞巌寺中興雲居禅師が市内に伊達藩の飛び地があった関係で、高弟の香山祖桂禅師がこの古刹瓦屋寺の衰退を嘆き再興を誓い雲居禅師の篤志者であった八日市福原茂右衛門を願主に小堂を建立、梵鐘を吊って臨済宗妙心寺派の一寺として「瓦屋禅寺」が中興されました。
香山祖桂禅師は27歳より74歳で亡くなるまで50年近くも当寺の中興事業にご精進されて四方より修行僧が訪れその教えが広く伝わり、延宝年間には越後十日町(現新潟市)の水野五右衛門の篤志で本堂の再建し、諸堂が整備されたとされます。
現在は平成30年4月国登録文化財として本堂・庫裡・地蔵堂・開山堂・経堂・賓頭盧堂・鐘堂の七棟が指定されます。」
最初に目にしたのは、これ。
僕がツイン地蔵と名付けている、並んでいる仏様の石仏。
僕は、これは古代出雲族の信仰していた幸神信仰の名残だと思っています。
近江は、出雲とも関係が深いのは以前より述べてきたし、その名残をここでも紹介してきました。
そして、この瓦屋禅寺でもその名残を確認することになりました。
順に紹介いたします。
本堂が見えてきました。
本堂は茅葺の渋いお堂です。
穴場と言われるだけあって、静かで落ち着いた空気が流れています。
吞兵衛のビンヅルさん。衆庶を救うも酒だけはやめられなかったとか・・・僕も好きな羅漢さんです。
さらに僕の崇拝する地蔵さま
その奥には祠が祀られていました。
何を祀っているのかは、確認できませんでした。
祠の周りに水を配して祀る、いわゆる弁天さんの様式です。
僕は、このスタイルはヒンズー教のシヴァリンガまたはリンガンヨニと呼ばれるシンボルと同じだと考えています。

画像のお婆ちゃんが水を注いでいる部分が、池の部分で、中心のヨニと呼ばれる突出した柱の部分が祠にあたります。
このリンガンヨニは、アジアの寺院で見られます。

後で、もっとはっきりしたリンガを見られますので、まずは紅葉狩りを楽しみましょう。
全体的にみると、まだ青い紅葉や黄色いのが残っている中で、鐘撞堂の紅葉が一番赤が綺麗でした。
母は、地面に散っている綺麗な赤い葉をいくつか拾っていました。
年老いても、こういったしぐさをするのは、いくつになっても女性なんですね。
僕も綺麗な葉を探して母に渡しました。
本堂から少し高手に経堂はあります。
経堂から見下ろす本堂も美しいです。
さて、本堂の下の道を少し歩きました。
これもある意味、リンガですね。
四角いリンガもあるようですからね。

先ほど、はっきりリンガンヨニが見れると言いましたが、それがこれです。
三尊像の立っている台座は、まぎれもなくリンガでしょ。
ほら、これと同じです。

ヨニに三尊像を刻んでいるだけです。
そして、三尊像とは、もしかすると幸神三神を意味しているのかもしれません。
古代出雲族が信仰していた幸神三神は、父母子の三神で構成されています。
特に古代日本では、その中の母神、つまり女神信仰が強かったようです。
現在も日本の最高神、天照大神が女神なのもその名残です。
そういった意味でもう一つ興味を惹かれる祠はありました。
子を抱く母の像です。
これが誰なのかわかりませんが、その意味は母子の信仰なのは間違いないと思います。
全く想像していなかった瓦屋禅寺での発見でしたが、現代も形を変えて古代日本の魂の名残が見ることができます。
すでに日本人の精神を忘れてしまった現代人。日本の魂をなくした我々はいったい何人なんでしょうか?
時には、古代に思いを寄せることも必要ですね。
前回からの続きです。
大凧通りを南下、北側には線路を隔てて、先ほど往路で歩いた山の麓が見えています。
ほどなくして、次のポイントに到着しました。
日吉神社です。
境内に入る鳥居の横にこんな伝説が紹介されていました。
「嫁とり橋」
このお話は、こちらのブログ「滋賀サクの歴史浪漫奇行」に詳しく紹介されています。
かいつまんで言うと、ある娘が輿入れに橋を渡ろうとしてたら、橋の上で不思議な娘っ子が、今、龍神さんが大事な会合をしているから、橋を通るなと通せんぼをします。
一行は、その旨を無視して娘っ子を切り捨てたのですが、娘っ子の姿は消え、輿の中の嫁の姿まで消えてしまったという話です。
その橋を移築したものと伝えられる石橋を越え、鳥居を潜ると境内です。
この日の拝殿では、なにやら御祈祷をされていました。
邪魔をしてはいけないので、遠くでお参りをして本殿の撮影も遠慮しておきました。
その横には、境内社が祀られています。
早恵神社 神明神社 八幡神社
この日吉神社のご祭神は、
大山咋神 大國主命 瓊々杵尊 宇伽之御魂神
「社伝によると、創祀は和銅五年と伝えられ、元は日吉山王権現と称したが、明治二年日吉神社に改称した。建部郷十七ヶ村の総社である。
近傍に聖徳太子が瓦を焼かれた瓦屋寺があり、同寺は延暦寺の別院となり、四十八坊あって、当社はその所轄地となり、社僧が常に奉仕した。・・・・」
さて、日吉神社を後にすると最後のポイントへ向かいました。
少し大凧通りから離れ東へ移動します。
最後は、劔宮神社 (ケングウ) です。
御祭神は、天一目命
「創祀年代不詳。元は日吉七社の一社で、古書神器等もあったが、天亀、天正年間に焼失した。明治九年村社に列す。」
元は、日吉七社の一社ということですが・・・
山王信仰の総社日吉大社には、かつては境内108社・境外108社と言われていました。その中で、特に主なお社は21社あり、上七社、中七社、下七社と区別されていました。
その中の上七社が、2つの本宮と5つの摂社から成り、日吉七社・山王七社と呼ばれます。
本宮
西本宮:大己貴神(大国主神に同じ)
東本宮:大山咋神
5摂社
牛尾宮:大山咋神荒魂 - 大山咋神の荒魂
樹下宮:鴨玉依姫命
三宮宮:鴨玉依姫命荒魂 - 鴨玉依姫命の荒魂
宇佐宮:田心姫神
白山宮:菊理姫命
この中には、剣宮は含まれません。
剣宮は、瓊々杵命を祀り、本地仏は、倶利伽羅不動とされ白山姫神社境内に鎮まっています。
劔宮神社の掲示版には、
「又一説に坂本日吉大社の末社に素戔嗚命を祀る劔宮が存することより當社の祭神も此神とも云われている」
と説明されていますが、瓊々杵命を祀る剣宮社と一致しません。
単なる勘違いでしょうか?
それともかつては、日吉大社剣宮社に素戔嗚命が祀られていたのでしょうか?
現在は、素戔嗚命は、早尾神社に祀られています。
本地仏は、不動明王です。
剣宮社の瓊々杵命の本地仏が倶利伽羅不動ですから、同じ不動明王として混同されたのでしょうか?
因みに同じ東近江市に劔神社というのが鎮座しています。
劔宮神社からの距離は10km以内です。
この剣神社は、
「社伝によれば、白鳳二年羽田八国が勧請したと伝えられるが、この地は古墳が多く、その古墳より劔を発見し、畏敬の念より祀ったとも伝えられている。」
とありますが、ご祭神は、素戔嗚命です。
剣の神=素戔嗚命と考えられていたのかもしれません。
素戔嗚命は天叢雲剣(草薙剣)を献上した神ですから、剣の神です。
福井県、越前二の宮で織田信長の氏神である剣神社のご祭神も素戔嗚命です。
そして、剣の神は、鍛治の神、天一目命と入れ替わったのかもしれませんね。
となると、日吉大社の剣宮社も素戔嗚命だったのが、素戔嗚命は早尾神社に祀られているため、瓊々杵命に代えられたという考えも浮かんできますが、なぜ、瓊々杵命なのか?
確かに、瓊々杵命は天孫降臨の際に、三種の神器を授かっており、その一つが天叢雲剣ですが、剣の神かというと少し腑に落ちません。
もしかすると、これも明治の神道改革において天皇家の祖を敬う政策の影響があったのかもしれません。
日吉大社には、廃仏毀釈の闇の歴史が刻まれています。
あくまで、推測というか思い付きなので間違っている可能性が高いですが、調べれば確かなことがわかりそうですね。
これが本殿です。
そして、境内社の野神社です。
ご祭神は、草野姫命(かやのひめ)、受持神です。
今回の八日市探索の目的だった建部神社。
これは後に建部大社と移っていきます。
その建部大社には、境内社に草野姫を祀る大野神社が鎮座しています。
建部大社のHPには、
「建部大社がこの瀬田の地へと遷し祀られる以前、この地域の地主神として祀られていた神社です。祭神 草野姫命(かやのひめのみこと)がお祀りされています。
氏子の方々は本殿に続き、必ず参拝される特別な神社です。 」
と紹介されています。
この散策の最後にカヤノヒメに出会えたのは幸運だったように思います。
おそらく、カヤノヒメは近江の古い信仰にとって大切な神だったと感じています。
これで散策は終了です。
後は、八日市駅に戻るだけです。
遠くに太郎坊が見えていました。
今回のエリア以外でも八日市は興味深い神社があります。
又の機会に訪れたいです。
例えば・・・
塞神神社
八衢比古神 八衢比賣神 来名戸神
八咫神社
石凝姥神
河桁御河邊神社
天湯河桁命 瀬織津比咩神 稲倉魂命
他にもありそう・・・来年暖かくなったら行ってみましょう。
では、これにて今回の報告を終了します。
おまけ
駅までの道中、また地蔵さま
そして、おもしろい像
なんとなく徐福の像に似ていました。

(参考画像)
実は、古代出雲王家の伝承では、素戔嗚命のモデルは、徐福だと伝わっているので、
剣宮から徐福がシンクロしたと感じてしまったのです。
でも、これは、徐福ではなく、朝鮮半島で活躍した近江商人を祖にもつ旧建部村の村長さんの家だそうです。
おわり
前回からの続きです。
今回の報告もお地蔵さんからのスタートです。
ほんと、お地蔵さんが多い町でしょう。
大凧通りを少し東に入ると鎮座しているのが、天神社。
この前に訪れたのは、天御中主神を祀る天一神社。
で、ここは、天神社。
御祭神は、
天御中主神 高皇産霊神 神皇産霊神 天満大神
御神紋が梅鉢なので、天神さんの色合いが濃いです。
「宝暦の堂社帳上中村の篠に「天満天神宮一幹当村一ヶ村氏神末社一幹神輿部屋一幹」
とあります。
宝暦は、1751年から1763年までの期間で江戸時代ですから、この時代には天神さんが信仰されていたようです。
天神さんこと菅原道真公をお祀りしたのは、天暦元年6月9日(947年)、京都の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営されたことから始まります。
しかし、この天神社の創建は、
「創祀年代不詳。社伝によると、聖徳太子が瓦屋寺を建立された頃より鎮座すると伝える。」
ということで、それより100年以上前になります。
当然、そのころのご祭神は、天神さんではないということになります。
それが、天御中主神だったのかどうかは、ちょっと疑問を感じます。
まあ、何にせよこの八日市の町は、聖徳太子の瓦屋寺が建てられてことによって興隆したのだと思います。
本殿です。
牛の彫刻
牛の像
あと、神明社
さくっとお参りして、次のポイントに移動しました。
次は、牛王神社です。
天満宮の使いである牛と関係あるのでしょうか・・・
それから、もしかすると天神社や、天一神社の元の神と関係ありそうな・・・
もしかして、牛頭天王とか・・・・
と期待しながら訪れました。
ちょっと公園のような感じの牛王神社です。
線路をまたいですぐのところに鎮座していました。
境内に由緒書等はありませんでしたが、
御祭神は、岩滝蹈韛姫命
「御由緒は、創祀年代不詳であるが、元禄五年の検地水帳に「大竹有り四畝六歩牛王堂古跡宮四畝歩枝郷大塚大明神牛王堂境内」と記されている。」
岩滝蹈韛姫命は、地方名というかここでの神名で、一般的に神武天皇の后である媛蹈韛五十鈴媛命のことなんでしょうか?
境内社に石上神社が祀られているようです。
岩とか石とか・・・何か意味があるのでしょうかね?
僕の想像は見事に外れたようで、思いもよりません。
本殿です。
これが石上神社でしょうか。
物部系なんでしょうかね。。。
それから、今回の巡礼で、どこの神社でも目にしながらスルーしていたのですが、
これも八日市の特徴だと思います。
神武天皇遥拝所
どこにでもありました。
おそらく明治の神道改革の名残なんだと感じます。
明治以前の信仰から、国家神道の天皇信仰へと変わった遺物だと思います。
これは今でも続いています。
なぜ、牛王なのか・・・謎を残しながら、大凧通りに戻り南へ、八日市駅方面へ再び歩きました。
またまた地蔵さんが祀られていたので寄ってみると・・・
その大きな地蔵さんの足元に、今回初めてツイン地蔵らしきものを拝めました。
まあ、これだけでは、八日市に幸神信仰があったとは言いにくいですね。
それよりこの地蔵さんに引き付けられ、ふと後ろを見ると、
なんと、古墳があるじゃないですか!
大塚庵古墳
横穴式石室を有する古墳時代後期(六~七世紀代)の古墳。
大塚古墳群の一つで、大塚古墳群の特徴は、規模の大きな古墳が十基以上郡をなしていることと、被葬者たちが愛知川左岸中流域の水源地を管理、支配する者たちであったことがうかがわれるそうです。
力のある者達がこの地を支配していたんですね。
しかし、今は道路の脇に土地整備の邪魔のごとく位置しています。
今は、普通に住宅が並んでいますが、もしかすると誰かの土地の下には、
貴重なものが埋まっているかもしれませんね。
さて、もう少しだけ散策を続けます。
つづく
前回からの続きです。
五個荘町に入ってからも道をまっすぐに進みました。
前回の日記でお地蔵さんが多いと書きましたが道沿いには、やはりお地蔵さん
景色は、駅前と違ってのどかな丘陵地帯です。
良い感じですねえ~
そうこうしていると建部神社に着きました。
参道をまっすぐに歩くと鳥居があります。
「御祭神:大国主命 事代主神 日本武尊 稲依別王
御神紋:左三ツ巴
御由緒
6代孝安天皇の御代に、近江国神崎郡千種嶽に大国主命、事代主神を祀り後日本武尊東征の帰路近江国造の租意布多牟和気の女、布多遅能伊理比売を娶り稲依別王生まれ、景行天皇46年稲依別王御父日本武尊の神霊を大神と共に千種嶽に合祀され近江一の宮建部大明神と称し建部の氏神と定められた。
白鳳4年天武天皇の御代に稲依別王の曽孫建部連安麿神勅により栗田郡勢多に移し、称徳天皇の神護景雲2年に至り建部にある遠裔子孫その神徳を敬慕し箕作山の麓に神殿を建立し建部新宮と号し建部の荘17ヶ村の氏神として神社創立より毎年陰暦2の申に建部祭礼を営む。」
記紀によると日本武尊は、12代景行天皇の時代に活躍し亡くなっています。
彼を建部大明神として祀ったのは、その妃と息子でした。
しかし、この建部神社は、それ以前6代孝安天皇の時代に大国主命と事代主命を祀ったのが始まりとあります。
すなわちこの建部の郷は、もともと出雲系の住人が住んでいたことになります。
意布多牟和気は、安国の国造だったようです。安は今の野洲あたりでしょうし、八日市も近いわけです。
おそらくここら一体が安国だったと考えても良いように思います。
つまり安国は、出雲神を信仰した人達だと考えられると思います。
想像をたくましくすると、最初に祀られたのは、大国主命と事代主命ではなく、クナト大神と事代主命ではなかったのではないか・・・と思います。
出雲王家の伝承によると、事代主命の子孫が大和王朝を築いたとあります。
大国主命や事代主命というのは、本来、出雲の王と副王の名称だったものを書き換えたものだそうです。
一般的に、大国主命というと第八代出雲王、八千矛王と、第八代出雲副王の少彦名である八重波津身の事を指すようです。
おそらく大和王朝の勢力がここまで広がっていたのではないか・・・と考えました。
クナトが地蔵さんに変えられたのが事実なら、八日市に地蔵さんが多いのも納得できます。
そして12代景行天皇の時代に東征が行われて、この地の姫が大和王家と結ばれたわけです。
おそらくこれは、遠征時のロマンスなどではなく、天皇家への服従のしるしに婚姻関係を結んだのではないかと考えます。
詳しくは、書きませんが、11代垂仁天皇の時代に大和では、出雲系の王朝から九州系の王朝へと政権交代が行われたようです。
つまり、この八日市の地も出雲系から九州系の大和王権へと支配が変わったのだと思います。
ところで、日本武尊の妃で両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)がいます。
記・紀にみえる垂仁(すいにん)天皇の皇女です。
「日本書紀」によれば,日本武尊(やまとたけるのみこと)の最初の妃で,仲哀(ちゅうあい)天皇ら4子女を生んだ。「古事記」では布多遅能伊理毘売命とかき,石衝毘売(いわつくびめの)命の別名とするとあります。
WIKIのヤマトタケルの項では、
妃:両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君、建部君の祖。
となっています。
また、
妃:布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
(稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。
とも書いています。
二人は別人なのか同一人物なのか?
何か混乱があるのか・・・
二人は同一人物で、両道入姫皇女の父は垂仁天皇ではなく、安国の意布多牟和気だったのでは。
日本武尊と結婚して、義理の父が垂仁天皇なのでは?
実は、出雲王家の伝承では、ヤマトタケルの征服譚のモデルは、12代景行天皇の業績だと伝えられているのです。
日本武尊=景行天皇ならば、その妃の布多遅能伊理毘売命の実父が意布多牟和気で、義父が垂仁天皇となり、子が建部氏の祖、稲依別王として辻褄があってきます。
まあ、史学的には受け入れられないとは思いますが・・・・
それはさておき、お参りです。
結構立派だと感じました。
本殿の中には、中央に大きな社があり、
その両サイドには、二つの祠が並んで祀られていました。
なんとなく、三柱の祀り方だと思いました。
奈良の大神神社の鳥居は、同じように三つの鳥居が並んだ形の鳥居です。
幸神三神という神への信仰が原型にあるようです。
もしかするとこの建部の郷も同じ様式が残っているのかもしれないと想像します。
本殿の横には、ご神木。
それから、参道にはお地蔵さま
ちょっとした小屋のような建物の中に祀られていました。
扉は鍵がかかっていたので、扉越しに撮影させてもらいました。
お参りのあと、建部神社を後にしました。
次は、線路を越えて、逆の地域を散策します。
往路は、八日市駅から次の河辺の森駅の少し手前で、線路の東側へ移動し、復路へと引き返します。
ちょうどそのポイントに鎮座しているのが、天一神社でした。
本殿です。
その中には、建部神社と同じように、両サイドに祠が祀られています。
向かって右
向かって左
建部神社では撮影しませんでしたが、同じ様式が続いたので、ちょっと気になりました。
御祭神
天御中主神
御由緒
創祀年代不詳
境内社(摂社・末社)
八幡神社
境内に由緒書は存在しませんでした。
滋賀県神社庁のHPでは、上記の記事が載っています。
しかし、ここは、画像でも紹介したとうり本殿とその両サイドの祠、少なくとも三柱の神祀りが行われています。
しかし、HPでは、天御中主神と八幡神社の存在だけです。
祭神と社の数が一致しませんね。
八日市の隣町である近江八幡には天御中主命神社というのがあって、その名のとうり天御中主命をお祀りしています。
しかし、その由緒は、
「天台宗の隆盛の頃、長命寺の鎮守として下八王子を勧請し、虚空蔵大菩薩神社として祀られた。慶長四年造立の棟礼が存するが、創立年代は未詳である。日吉社の七社中の下八王子虚空蔵とあるのを下八王子天御中主命に習って、虚空蔵即ち天御中主尊とし社命を決定したと伝える。明治九年村社に加列。」
とあり、虚空蔵菩薩が天御中主命に変えられたそうです。
もしかするとこの天一神社のご祭神もどこかで変わった可能性を感じます。
この天一神社のすぐ近くに若宮神社があります。
参道と祠だけの小さな神社です。
若宮というだけに、どの神の子なのかな・・・と気になっていたのですが、何も手掛かりはありませんでした。
滋賀県神社庁の検索にもヒットしません。
しかし、別のサイト「村の鎮守さま」によりますと、
祭神 天照大神
由緒、創祀年代不詳
となっています。
若宮が天照大神て不思議な感じがします。
実は、八日市には、別の地域ですがもう一社、若宮神社があります。
こちらのご祭神も天照皇大神 。
配祀神に素盞鳴尊 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 少彦名命
「創祀年代不詳。永禄七年神祇管領より若宮大明神の称号を受け、明治九年若宮神社と改称。 明治十四年村社に列し、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。宮座講がある。」
永禄七年に若宮大明神の称号を受けていますが、この時代は西暦1564年で、
8月に武田信玄と上杉謙信が川中島で最後の対陣。
10月に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅使が織田信長と会見。
といった時代背景があります。
今のところは、なぜ、天照大神が若宮なのかよくわかりませんね。
これもご祭神が違ったのかもしれませんね。
ここから大凧通りという道を南下します。
八日市は、大凧で有名ですからこんな街道名が付けられたのでしょうね。
つづく

日本武尊(やまとたけるのみこと)
第12代・景行天皇の第二皇子(または第三皇子)で第14代・仲哀天皇の御父。
父、景行天皇に西日本の制圧を命じられ、九州・中国・地方を平定するが、続く東征事業にて殉ぜられた。
スサノオ命と並ぶ古代の大英雄の一人。
ヤマトタケル伝説は、複数の人の行いをヤマトタケルという一人の英雄の偉業として伝えられていると言われています。
すなわちヤマトタケルは伝説上の人物、架空の人物であるとも言われています。
しかしながら、数々の伝説を残し、ヤマトタケルの子孫が残っている以上は、ヤマトタケルは架空の人物であっても、そのモデルとなった人物は存在していたのは間違いないと思います。
ヤマトタケルを主祭神とする近江国一宮建部大社を築いた建部氏は、そのタケルの子孫です。
現在、大津市瀬田に鎮座しています建部大社ですが、その元は、ヤマトタケルの妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)と御子稲依別王(いなよりわけのみこ)が住まわれていた建部の郷(現東近江市)に父、ヤマトタケルの霊を祀ったのが始まりでした。
今回は、その建部の郷へ訪れてきました。
JR近江八幡駅で近江鉄道に乗り換え、八日市駅まで行きました。
近江八幡から八日市までの運賃は450円ですが、
往復するなら、880円の一日乗り放題のキップがお得ですよと駅員さんに勧められて、それを購入しました。
近江鉄道の路線は、JRに比べても栄えてはいませんが、
日野へ行くときにも利用しましたが、結構古代の近江を知るうえで重要だと思います。
このキップでいろいろと廻ってみるのも良いと思います。
さて、八日市駅に着きました。
電車の本数が1時間に2本程度しかないので、帰りの時間を確認しておいたほうが良いです。
駅を降りると割と開けています。
そこからまず、線路の西側を次の駅である河辺の森駅付近まで歩くことにしました。
その道添に建部神社があります。
八日市駅の出口を出て、線路を西側に渡るとすぐに神社が見えます。
手持ちの地図では確認していなかったので、何だろうと思って近づいていきました。
ここは、松尾神社でした。
滋賀県神社庁の由緒によると、
「御祭神
大山咋之神
〔配祀神〕市杵嶋姫命
御神紋
左三ツ巴
御由緒
聖徳太子が市場を開かれたときより鎮座されたと伝えられ、当時祭神は、大国主命と伝えられる。昔この地に南都東大寺に属する正社山尊勝寺があり、当社はこの寺の守り神として尊崇され、社僧が常に奉仕し、祭儀も盛大であったといわれている。永禄十一年夏信長の佐々木攻めの時、兵火を受けた尊勝寺の衰退とともに、神社の維持困難となり、宝暦五年神祇官白川伯王家染筆の神額と同時に御沙汰書を下付され、山城国より松尾神社の御分霊を勧請されて、それより松尾神社と称される。明治九年村社に列し、同四十二年神饌幣帛料供進指定となる。」
神社の由緒書によると、上記の二神の他に、猿田彦命もお祀りしているようです。
また、松尾大明神由緒記によると、仁寿二年(852年)建御雷神一柱を祀ると記録されているそうです。
聖徳太子の推古時代は、6世紀の終わり頃から7世紀の初めですから、建御雷神を祀る9世紀(852年)とは合いません。しかし、この辺りを散策してみて解ったのは、推古時代にこの町が栄え各氏神社が建てられたとされているのです。
もちろん、この松尾神社が後発である可能性もあるのですが、素直に考えると、この神社も推古時代に建てられたのでしょう。
そして、神社庁の由緒を信じるなら、当時は大国主を祀り、その後の9世紀には建御雷神に変わっていた。
さらにその後、秦氏の氏神あるいは山王信仰の神へと変わったと考えられます。
神社の由緒書によると猿田彦神も祀っているようですし、境内には琴平神社が祀られているので、
調べてみないと分かりませんが、出雲系の大国主命は、そちらに変わったのかもしれません。
この松尾神社には、桃山時代の庭園が残っています。
本殿をお参りしました。
八日市の神様にご挨拶です。
今回の散策は、ここからスタートです。
琴平社です。
拝殿には、「正社山」の扁額が。
掲示板には、古地図でしょうか?
貼られていましたが、よくわかりませんでした。
神社を出ると山沿いの道を北に向かって歩きました。
瓦屋寺まで2.1km。
今回、この瓦屋寺がこの八日市の町の礎になっていたということがよくわかりました。
松尾町から山の神町へ
地図を見ていて、この山の神て何だろう?と思っていたのです。
おそらく、松尾神社の神がそうなのだと思います。
ご祭神の大山咋神は、山王の神ですし、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)とも呼ばれます。
『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神とされるという。(wiki大山咋神の項より)
日吉大社の山王祭では、父神大山咋神と母神鴨玉依姫の結婚により誕生する賀茂別雷大神の物語が御輿によって演じられます。
もしかすると、松尾神社の建御雷神を祭神にしていたことと、賀茂別雷大神は、共に雷神ですから、関係あるのかもしれません。
鴨氏は、出雲系ですから大国主命とも関係しています。
これが、その神の坐ます山なのでしょうね。
多分、延命山がこれなんだと思います。
さらに歩くと瓦屋寺町に入ります。
山はずっと連なっています。
歩いていると地蔵さんが目に入りました。
江戸時代の大梵鐘の鋳造跡にお地蔵さんを祀っているようです。
この地蔵さんは江戸時代以降と考えられますが、今回、ちょっと気になったのは、
この町には、地蔵さんがやたらと多いということです。
この後、各地で撮影した地蔵さんの画像も随時アップしていきますね。
地蔵さんは、道祖神として祀られることも多いのですが、
同じく道祖神として、猿田彦神や久那斗神が祀られます。
ある話によると古代出雲のクナト大神は、地蔵さんに変えられて信仰されたと言われています。
松尾神社に猿田彦神が祀られていることも関係あるかもしれません。
実は、僕は、古代近江の地には、出雲系の色が濃く残っていると感じています。
そこに物部が重なり、渡来系が重なってきて複雑な土地柄を持っているように思うのですが、
一つの大きな底辺に出雲を感じています。
おそらく、大和の地を追われた出雲系の王族が関係しているような気がしています。
もう少し歩くと例の瓦屋寺があります。
聖徳太子が四天王寺を建立するため、この地で10万8000枚の瓦を焼き、その瓦を管理するために建立したお寺だそうです。
それ以前にもこの山の山麓で古くから瓦が焼かれていたらしく、旧表参道の階段登り口付近には白鳳時代の窯跡が残っているようです。
雰囲気の良い道が連なっています。
お寺は、箕作山(みつくりやま)の山中にあるらしく、1250段もの石段を登っていかないといけないようです。
ただし、別ルートから車で上がれるみたいです。
今回は、パスしますが、もう少し季節が進んで紅葉の季節になるととても綺麗で風情があるようです。
ヤマトタケルと同じく、聖徳太子も実存が疑われている人物です。
しかし、これもモデルがいたことは確かだと思います。
更に歩を進めると・・・
おもむろに古墳がありました。
瓦屋寺古墳群
7世紀頃の豪族、首長の墳墓だそうです。
現在、57基が確認、未確認は100基を越えると予想されているそうです。
7世紀というと、645年が大化の改新ですから、
蘇我時代から、天智天皇、天武天皇や持統天皇の時代になります。
その初期は、聖徳太子の推古朝です。
聖徳太子が架空の人物なら、そのモデルは誰になるのか?
よく聞かれるのが、蘇我馬子やその子の蘇我蝦夷です。
彼らの実績が聖徳太子の実績として語られている可能性があるとか。
隋の裴世清が倭国を訪れた時、『隋書』によれば、俀王・多利思北孤(たりしひこ)が記録されています。
当時の推古天皇は女帝であるはずが、髄書には、男王が記録されています。
これは、聖徳太子のことだと考えられていますが、一説には蘇我馬子が王だった可能性も語られています。
今も繋がる古代出雲王家の家伝によると古代出雲王家と蘇我氏が強い繋がりがあったとか。
まだ、頭の中がはっきりとは整理できませんが、やはり出雲の影を感じずにはいられませんでした。
次の目的地は、お目当ての建部神社です。
道標は、五個荘町に入ることになります。
つづく
追伸
久しぶりの古代近江ウォークになりました。
春以降なので、数か月ぶりの更新となります。
にも、かかわらず毎日のようにわずかですが、このHPにも訪問していただける読者がおられます。
おそらく、空振りの訪問を毎日繰り返されている方もいるのではないか・・・と想像しているのですが、
そういった方には、申し訳なく思っています。
外を長時間歩くため季節の良い日を選んでの散策となります。
それとその時期の気分によって気まぐれに行う散策ですので、こういった結果となっています。
また、その報告も週末の時間のある時に更新しているので、けっこうお待たせすることも多々あるかと思います。
どうか、気長にお付き合いいただけると嬉しく思います。
素人ながら、少し違った観点で古代近江の姿を追えると面白いなと考え更新していきますので、
今後ともよろしくお願いいたします。