前回からの続きです。
五個荘町に入ってからも道をまっすぐに進みました。
前回の日記でお地蔵さんが多いと書きましたが道沿いには、やはりお地蔵さん
景色は、駅前と違ってのどかな丘陵地帯です。
良い感じですねえ~
そうこうしていると建部神社に着きました。
参道をまっすぐに歩くと鳥居があります。
「御祭神:大国主命 事代主神 日本武尊 稲依別王
御神紋:左三ツ巴
御由緒
6代孝安天皇の御代に、近江国神崎郡千種嶽に大国主命、事代主神を祀り後日本武尊東征の帰路近江国造の租意布多牟和気の女、布多遅能伊理比売を娶り稲依別王生まれ、景行天皇46年稲依別王御父日本武尊の神霊を大神と共に千種嶽に合祀され近江一の宮建部大明神と称し建部の氏神と定められた。
白鳳4年天武天皇の御代に稲依別王の曽孫建部連安麿神勅により栗田郡勢多に移し、称徳天皇の神護景雲2年に至り建部にある遠裔子孫その神徳を敬慕し箕作山の麓に神殿を建立し建部新宮と号し建部の荘17ヶ村の氏神として神社創立より毎年陰暦2の申に建部祭礼を営む。」
記紀によると日本武尊は、12代景行天皇の時代に活躍し亡くなっています。
彼を建部大明神として祀ったのは、その妃と息子でした。
しかし、この建部神社は、それ以前6代孝安天皇の時代に大国主命と事代主命を祀ったのが始まりとあります。
すなわちこの建部の郷は、もともと出雲系の住人が住んでいたことになります。
意布多牟和気は、安国の国造だったようです。安は今の野洲あたりでしょうし、八日市も近いわけです。
おそらくここら一体が安国だったと考えても良いように思います。
つまり安国は、出雲神を信仰した人達だと考えられると思います。
想像をたくましくすると、最初に祀られたのは、大国主命と事代主命ではなく、クナト大神と事代主命ではなかったのではないか・・・と思います。
出雲王家の伝承によると、事代主命の子孫が大和王朝を築いたとあります。
大国主命や事代主命というのは、本来、出雲の王と副王の名称だったものを書き換えたものだそうです。
一般的に、大国主命というと第八代出雲王、八千矛王と、第八代出雲副王の少彦名である八重波津身の事を指すようです。
おそらく大和王朝の勢力がここまで広がっていたのではないか・・・と考えました。
クナトが地蔵さんに変えられたのが事実なら、八日市に地蔵さんが多いのも納得できます。
そして12代景行天皇の時代に東征が行われて、この地の姫が大和王家と結ばれたわけです。
おそらくこれは、遠征時のロマンスなどではなく、天皇家への服従のしるしに婚姻関係を結んだのではないかと考えます。
詳しくは、書きませんが、11代垂仁天皇の時代に大和では、出雲系の王朝から九州系の王朝へと政権交代が行われたようです。
つまり、この八日市の地も出雲系から九州系の大和王権へと支配が変わったのだと思います。
ところで、日本武尊の妃で両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)がいます。
記・紀にみえる垂仁(すいにん)天皇の皇女です。
「日本書紀」によれば,日本武尊(やまとたけるのみこと)の最初の妃で,仲哀(ちゅうあい)天皇ら4子女を生んだ。「古事記」では布多遅能伊理毘売命とかき,石衝毘売(いわつくびめの)命の別名とするとあります。
WIKIのヤマトタケルの項では、
妃:両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君、建部君の祖。
となっています。
また、
妃:布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
(稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。
とも書いています。
二人は別人なのか同一人物なのか?
何か混乱があるのか・・・
二人は同一人物で、両道入姫皇女の父は垂仁天皇ではなく、安国の意布多牟和気だったのでは。
日本武尊と結婚して、義理の父が垂仁天皇なのでは?
実は、出雲王家の伝承では、ヤマトタケルの征服譚のモデルは、12代景行天皇の業績だと伝えられているのです。
日本武尊=景行天皇ならば、その妃の布多遅能伊理毘売命の実父が意布多牟和気で、義父が垂仁天皇となり、子が建部氏の祖、稲依別王として辻褄があってきます。
まあ、史学的には受け入れられないとは思いますが・・・・
それはさておき、お参りです。
結構立派だと感じました。
本殿の中には、中央に大きな社があり、
その両サイドには、二つの祠が並んで祀られていました。
なんとなく、三柱の祀り方だと思いました。
奈良の大神神社の鳥居は、同じように三つの鳥居が並んだ形の鳥居です。
幸神三神という神への信仰が原型にあるようです。
もしかするとこの建部の郷も同じ様式が残っているのかもしれないと想像します。
本殿の横には、ご神木。
それから、参道にはお地蔵さま
ちょっとした小屋のような建物の中に祀られていました。
扉は鍵がかかっていたので、扉越しに撮影させてもらいました。
お参りのあと、建部神社を後にしました。
次は、線路を越えて、逆の地域を散策します。
往路は、八日市駅から次の河辺の森駅の少し手前で、線路の東側へ移動し、復路へと引き返します。
ちょうどそのポイントに鎮座しているのが、天一神社でした。
本殿です。
その中には、建部神社と同じように、両サイドに祠が祀られています。
向かって右
向かって左
建部神社では撮影しませんでしたが、同じ様式が続いたので、ちょっと気になりました。
御祭神
天御中主神
御由緒
創祀年代不詳
境内社(摂社・末社)
八幡神社
境内に由緒書は存在しませんでした。
滋賀県神社庁のHPでは、上記の記事が載っています。
しかし、ここは、画像でも紹介したとうり本殿とその両サイドの祠、少なくとも三柱の神祀りが行われています。
しかし、HPでは、天御中主神と八幡神社の存在だけです。
祭神と社の数が一致しませんね。
八日市の隣町である近江八幡には天御中主命神社というのがあって、その名のとうり天御中主命をお祀りしています。
しかし、その由緒は、
「天台宗の隆盛の頃、長命寺の鎮守として下八王子を勧請し、虚空蔵大菩薩神社として祀られた。慶長四年造立の棟礼が存するが、創立年代は未詳である。日吉社の七社中の下八王子虚空蔵とあるのを下八王子天御中主命に習って、虚空蔵即ち天御中主尊とし社命を決定したと伝える。明治九年村社に加列。」
とあり、虚空蔵菩薩が天御中主命に変えられたそうです。
もしかするとこの天一神社のご祭神もどこかで変わった可能性を感じます。
この天一神社のすぐ近くに若宮神社があります。
参道と祠だけの小さな神社です。
若宮というだけに、どの神の子なのかな・・・と気になっていたのですが、何も手掛かりはありませんでした。
滋賀県神社庁の検索にもヒットしません。
しかし、別のサイト「村の鎮守さま」によりますと、
祭神 天照大神
由緒、創祀年代不詳
となっています。
若宮が天照大神て不思議な感じがします。
実は、八日市には、別の地域ですがもう一社、若宮神社があります。
こちらのご祭神も天照皇大神 。
配祀神に素盞鳴尊 瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 少彦名命
「創祀年代不詳。永禄七年神祇管領より若宮大明神の称号を受け、明治九年若宮神社と改称。 明治十四年村社に列し、同四十一年神饌幣帛料供進指定となる。宮座講がある。」
永禄七年に若宮大明神の称号を受けていますが、この時代は西暦1564年で、
8月に武田信玄と上杉謙信が川中島で最後の対陣。
10月に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅使が織田信長と会見。
といった時代背景があります。
今のところは、なぜ、天照大神が若宮なのかよくわかりませんね。
これもご祭神が違ったのかもしれませんね。
ここから大凧通りという道を南下します。
八日市は、大凧で有名ですからこんな街道名が付けられたのでしょうね。
つづく

日本武尊(やまとたけるのみこと)
第12代・景行天皇の第二皇子(または第三皇子)で第14代・仲哀天皇の御父。
父、景行天皇に西日本の制圧を命じられ、九州・中国・地方を平定するが、続く東征事業にて殉ぜられた。
スサノオ命と並ぶ古代の大英雄の一人。
ヤマトタケル伝説は、複数の人の行いをヤマトタケルという一人の英雄の偉業として伝えられていると言われています。
すなわちヤマトタケルは伝説上の人物、架空の人物であるとも言われています。
しかしながら、数々の伝説を残し、ヤマトタケルの子孫が残っている以上は、ヤマトタケルは架空の人物であっても、そのモデルとなった人物は存在していたのは間違いないと思います。
ヤマトタケルを主祭神とする近江国一宮建部大社を築いた建部氏は、そのタケルの子孫です。
現在、大津市瀬田に鎮座しています建部大社ですが、その元は、ヤマトタケルの妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)と御子稲依別王(いなよりわけのみこ)が住まわれていた建部の郷(現東近江市)に父、ヤマトタケルの霊を祀ったのが始まりでした。
今回は、その建部の郷へ訪れてきました。
JR近江八幡駅で近江鉄道に乗り換え、八日市駅まで行きました。
近江八幡から八日市までの運賃は450円ですが、
往復するなら、880円の一日乗り放題のキップがお得ですよと駅員さんに勧められて、それを購入しました。
近江鉄道の路線は、JRに比べても栄えてはいませんが、
日野へ行くときにも利用しましたが、結構古代の近江を知るうえで重要だと思います。
このキップでいろいろと廻ってみるのも良いと思います。
さて、八日市駅に着きました。
電車の本数が1時間に2本程度しかないので、帰りの時間を確認しておいたほうが良いです。
駅を降りると割と開けています。
そこからまず、線路の西側を次の駅である河辺の森駅付近まで歩くことにしました。
その道添に建部神社があります。
八日市駅の出口を出て、線路を西側に渡るとすぐに神社が見えます。
手持ちの地図では確認していなかったので、何だろうと思って近づいていきました。
ここは、松尾神社でした。
滋賀県神社庁の由緒によると、
「御祭神
大山咋之神
〔配祀神〕市杵嶋姫命
御神紋
左三ツ巴
御由緒
聖徳太子が市場を開かれたときより鎮座されたと伝えられ、当時祭神は、大国主命と伝えられる。昔この地に南都東大寺に属する正社山尊勝寺があり、当社はこの寺の守り神として尊崇され、社僧が常に奉仕し、祭儀も盛大であったといわれている。永禄十一年夏信長の佐々木攻めの時、兵火を受けた尊勝寺の衰退とともに、神社の維持困難となり、宝暦五年神祇官白川伯王家染筆の神額と同時に御沙汰書を下付され、山城国より松尾神社の御分霊を勧請されて、それより松尾神社と称される。明治九年村社に列し、同四十二年神饌幣帛料供進指定となる。」
神社の由緒書によると、上記の二神の他に、猿田彦命もお祀りしているようです。
また、松尾大明神由緒記によると、仁寿二年(852年)建御雷神一柱を祀ると記録されているそうです。
聖徳太子の推古時代は、6世紀の終わり頃から7世紀の初めですから、建御雷神を祀る9世紀(852年)とは合いません。しかし、この辺りを散策してみて解ったのは、推古時代にこの町が栄え各氏神社が建てられたとされているのです。
もちろん、この松尾神社が後発である可能性もあるのですが、素直に考えると、この神社も推古時代に建てられたのでしょう。
そして、神社庁の由緒を信じるなら、当時は大国主を祀り、その後の9世紀には建御雷神に変わっていた。
さらにその後、秦氏の氏神あるいは山王信仰の神へと変わったと考えられます。
神社の由緒書によると猿田彦神も祀っているようですし、境内には琴平神社が祀られているので、
調べてみないと分かりませんが、出雲系の大国主命は、そちらに変わったのかもしれません。
この松尾神社には、桃山時代の庭園が残っています。
本殿をお参りしました。
八日市の神様にご挨拶です。
今回の散策は、ここからスタートです。
琴平社です。
拝殿には、「正社山」の扁額が。
掲示板には、古地図でしょうか?
貼られていましたが、よくわかりませんでした。
神社を出ると山沿いの道を北に向かって歩きました。
瓦屋寺まで2.1km。
今回、この瓦屋寺がこの八日市の町の礎になっていたということがよくわかりました。
松尾町から山の神町へ
地図を見ていて、この山の神て何だろう?と思っていたのです。
おそらく、松尾神社の神がそうなのだと思います。
ご祭神の大山咋神は、山王の神ですし、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)とも呼ばれます。
『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神とされるという。(wiki大山咋神の項より)
日吉大社の山王祭では、父神大山咋神と母神鴨玉依姫の結婚により誕生する賀茂別雷大神の物語が御輿によって演じられます。
もしかすると、松尾神社の建御雷神を祭神にしていたことと、賀茂別雷大神は、共に雷神ですから、関係あるのかもしれません。
鴨氏は、出雲系ですから大国主命とも関係しています。
これが、その神の坐ます山なのでしょうね。
多分、延命山がこれなんだと思います。
さらに歩くと瓦屋寺町に入ります。
山はずっと連なっています。
歩いていると地蔵さんが目に入りました。
江戸時代の大梵鐘の鋳造跡にお地蔵さんを祀っているようです。
この地蔵さんは江戸時代以降と考えられますが、今回、ちょっと気になったのは、
この町には、地蔵さんがやたらと多いということです。
この後、各地で撮影した地蔵さんの画像も随時アップしていきますね。
地蔵さんは、道祖神として祀られることも多いのですが、
同じく道祖神として、猿田彦神や久那斗神が祀られます。
ある話によると古代出雲のクナト大神は、地蔵さんに変えられて信仰されたと言われています。
松尾神社に猿田彦神が祀られていることも関係あるかもしれません。
実は、僕は、古代近江の地には、出雲系の色が濃く残っていると感じています。
そこに物部が重なり、渡来系が重なってきて複雑な土地柄を持っているように思うのですが、
一つの大きな底辺に出雲を感じています。
おそらく、大和の地を追われた出雲系の王族が関係しているような気がしています。
もう少し歩くと例の瓦屋寺があります。
聖徳太子が四天王寺を建立するため、この地で10万8000枚の瓦を焼き、その瓦を管理するために建立したお寺だそうです。
それ以前にもこの山の山麓で古くから瓦が焼かれていたらしく、旧表参道の階段登り口付近には白鳳時代の窯跡が残っているようです。
雰囲気の良い道が連なっています。
お寺は、箕作山(みつくりやま)の山中にあるらしく、1250段もの石段を登っていかないといけないようです。
ただし、別ルートから車で上がれるみたいです。
今回は、パスしますが、もう少し季節が進んで紅葉の季節になるととても綺麗で風情があるようです。
ヤマトタケルと同じく、聖徳太子も実存が疑われている人物です。
しかし、これもモデルがいたことは確かだと思います。
更に歩を進めると・・・
おもむろに古墳がありました。
瓦屋寺古墳群
7世紀頃の豪族、首長の墳墓だそうです。
現在、57基が確認、未確認は100基を越えると予想されているそうです。
7世紀というと、645年が大化の改新ですから、
蘇我時代から、天智天皇、天武天皇や持統天皇の時代になります。
その初期は、聖徳太子の推古朝です。
聖徳太子が架空の人物なら、そのモデルは誰になるのか?
よく聞かれるのが、蘇我馬子やその子の蘇我蝦夷です。
彼らの実績が聖徳太子の実績として語られている可能性があるとか。
隋の裴世清が倭国を訪れた時、『隋書』によれば、俀王・多利思北孤(たりしひこ)が記録されています。
当時の推古天皇は女帝であるはずが、髄書には、男王が記録されています。
これは、聖徳太子のことだと考えられていますが、一説には蘇我馬子が王だった可能性も語られています。
今も繋がる古代出雲王家の家伝によると古代出雲王家と蘇我氏が強い繋がりがあったとか。
まだ、頭の中がはっきりとは整理できませんが、やはり出雲の影を感じずにはいられませんでした。
次の目的地は、お目当ての建部神社です。
道標は、五個荘町に入ることになります。
つづく
追伸
久しぶりの古代近江ウォークになりました。
春以降なので、数か月ぶりの更新となります。
にも、かかわらず毎日のようにわずかですが、このHPにも訪問していただける読者がおられます。
おそらく、空振りの訪問を毎日繰り返されている方もいるのではないか・・・と想像しているのですが、
そういった方には、申し訳なく思っています。
外を長時間歩くため季節の良い日を選んでの散策となります。
それとその時期の気分によって気まぐれに行う散策ですので、こういった結果となっています。
また、その報告も週末の時間のある時に更新しているので、けっこうお待たせすることも多々あるかと思います。
どうか、気長にお付き合いいただけると嬉しく思います。
素人ながら、少し違った観点で古代近江の姿を追えると面白いなと考え更新していきますので、
今後ともよろしくお願いいたします。
前回からの続きです。
三輪神社には、神主さんが在住しておりません。
そこから20分ほど歩いた距離に鎮座する高野神社から神主さんが来られるとある本で読みました。
では、その高野神社まで歩いてみることにしました。
歩いていると三上山の存在が印象的です。
整備された川も流れています。
三上山の裾には野洲川という大きな川が流れていますが、
古代の社会では、聖なる神奈備山と川はセットだったように思います。
三上山を見ていつも思うのは、エジプトのギザのピラミッドとナイル川です。
近江でも豪族が住んだ地は、細かい川が水路のように張り巡らされているような感じを受けます。
特に、経験からは、物部氏の澄んだ水口や守山なんかがそう感じました。
高野神社の位置は、事前に地図で確認しておいたのですが、この散策には地図を持ってきませんでした。
そこで、だいたいの方角の検討をつけると、久しぶりに神社センサーを起動させました。
神社センサーといってもスマホのアプリでも、特別な能力でもありません。
ただ、こっちにありそうだな・・・といった雰囲気を感じとる、いわば今までの経験からくる一種の感覚です。
神様との縁というのもあるようで、ダメなときは、地図を見ながら何度探しても神社が見つからない時があります。逆に、縁のある時は、突然目の前に神社が現れる時があります。
今回は、縁があったようです。
一度は、川に沿って歩いたため、道から外れかけたのですが、途中でこれは違うな・・・と引き換えし、別の道を歩きました。
しばらくすると鎮守の森が見えました。
これが一番の目印です。森や林は、遠くから確認できるし、これがあると神社がある確率が高いです。
その森を目指して近づいていくと、
I GOT IT !
ありました。高野神社
想像していたより立派で大きな神社でした。
真っ直ぐな参道を進みます。
そして、山門を潜ります。
ご祭神は、 大名草彦命(第11代垂仁天皇の御代)
式内社で栗田八座の一社です。
「社伝によると、天智天皇の御代以降、高野造なる人がこの地一帯を開墾開発し、高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間(701~714)我が国で最初に鋳造された「和同開珎」の鋳師(鋳銭司)高野宿禰道経一族が住んだことは有名であり、それらの人々の氏神として、祖先を祀ったのが当社である。
中世よりは、通称「由紀志呂宮(ゆきしろのみや)」又「由岐宮(ゆきのみや)」として尊崇されて来た。これは大同元年(806)大嘗祭の悠紀方として新稲を進納したことに由来する。・・・・」
滋賀県神社庁のHPで高野神社を検索すると、長浜市高月町高野の高野神社もヒットします。
ここもご祭神は、大名草彦命を祀っており、高野氏の祖神が大名草彦命だということがわかります。
大名草彦命は『国造次第』に紀伊国の第5代国造として見える大名草比古(命)と思われこの一族は紀伊国出身だということになります。紀伊には、神武天皇と戦った名草戸畔がいましたが、紀伊の名草地方の出身なのは間違いなさそうです。
『先代旧事本紀』天神本紀によれば高天原から葦原中国へ降臨する事となった饒速日尊の護衛として付き従った32神の1柱に天道根命がおり、彼は、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられたようです。大名草彦はこの後裔にあるようです。
ニギハヤヒを祖とする物部氏は、野洲川の少し上流、水口に住んでいましたし、ここの少し下流の守山にも住んでいました。
そういった関係で高野氏がこの野洲川の畔に土地を開墾したのかもしれないと想像できます。
悠紀に関しては、
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官司の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。
悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。
悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国(現在の京都府、奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もない。
宇多天皇以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。
大嘗祭(だいじょうさい)とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭のことで、
新天皇の最初の大仕事だと言えそうですが、この祭りに使われる稲を駆り出される田がここにあったことになります。
これを由紀志呂というようですが、印岐志呂神社というのが草津に鎮座しております。
イキシロと読みますが、これはユキシロのことだとされています。
いずれにせよ、近江国が悠紀に定めされたことに関係すると思います。
さて、本殿にお参りします。
立派な社殿です。
その横にこれも境内社にしては大きめのお社が並んでいます。
八重釜神社と敏鎌神社です。
「境内摂社として、土・水神を祀る「敏鎌社」(二の宮)「八重釜社」(三の宮)があり、共に農耕にかかわる大自然の神々で、本殿、二の宮、三ノ宮は何れも八角柱状の神木を御神体をし、御柱の信仰をとどめるものである。」
ところで、
大祓詞の中に
「大津辺に居る大船を 舳解放艫解放て 大海原に押放事之如く
彼方之繁木が本を焼鎌の敏鎌以て打掃事之如く遺る罪は不在と祓賜ひ清賜事を
高山之末短山之末より佐久那太理に落多支都速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云神大海原に持出なむ 如此持出往ば荒塩之塩の八百道の八塩道之塩の八百会に坐す速開都比咩と云神・・・・・」
と有名な瀬織津姫を初めとする祓戸四神の説明の一節の直前に焼鎌、敏鎌という言葉が出てきます。
「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く」とは、向こうの方の繁った木を、焼きを入れた敏鎌で打ち掃うことだそうです。
(大祓詞の解釈と信仰 P69参照)
この大祓詞の元、中臣祓詞が天智天皇時代に作られた大津の佐久奈度神社には、本殿の横に摂社として焼鎌社(天御柱大神)と敏鎌社(国御柱大神)が祀られております。
この二柱は、龍田の風神と呼ばれる奈良の龍田大社のご祭神と同じ神様で、伊勢下宮の風宮の神様でもあります。
もし、この高野神社の八重釜社と敏鎌社が、焼鎌社と敏鎌社と同じであるなら、
奇妙にも風神ではなく、水と土の神様になっております。
社伝には、天智天皇時代に高野造がこの土地を開墾したそうですから、佐久奈度神社の創建と同じ天智時代になります。
高野神社の創建が後の世だとしても、それほど後にはならないだろうから不思議な感じがします。
焼鎌社と敏鎌社の神のモデルは他にあるのではないか・・・
ついついそんなことを考えてしまいます。
特に八重という文字が使われていること、釜と鎌が区別されていること。
これらは、出雲の消された神に繋がるような気がします。
他にも稲荷神社 大神宮 祖霊社といった境内社が祀られています。
お参りを済ませると、もと来た手原駅に戻ることにしました。
やはり三上山が印象的です。
他にも名前は確認できておりませんが、聖地と思われる山々に囲まれていました。
多分、石部散策をした時にみえた山々だと思います。
わずか半日程度のプチ散策でしたが、なかなかに意味深い巡礼となりました。
帰りは、手原駅近くの中華屋さんで昼食をとりました。
ここがまた、安いお店だったのです。
では、このへんで。。。
終わり
やはり暖かくなると外出する意欲も出てきます。
GWの最後に、もう一回、歩くことにしました。
今回のエリアは、草津・栗東エリアの手原駅付近になります。
JR草津駅で草津線に乗り換え、一駅目が手原駅です。
ここで、下車しました。
駅からは、三上山が見えます。
このあたりも三上山を聖地とした文化圏の一つだったと想像しています。
目当ての神社に向かい歩き始めると、すぐに別の神社が見えました。
これは、地図で確認していなかった神社なのですが、
最初のご挨拶は、ここですることにしました。
天満神社です。
天神さんなので、ご祭神は、菅原道真公となるのですが、
元々は、イザナギ・イザナミの夫婦神だったようです。
どちらも出雲系の神です。
イザナギ・イザナミは、国生みの神ですが、出雲の伝承によると幸神の夫婦神がモデルだとされ、出雲の神魂神社に祀られたのが最初だとされています。
道真公は、野見宿祢の子孫ですから、古代出雲氏族になります。
こちらのHPにこんな昔ばなしが紹介されていました。
「斉明天皇の御代、村造(むらのみやつこ)に布佐という人があった。
八人の子どもがいたが、八人とも女の子だった。一人でもよいから男の子が欲しいと思った。
どうか男の子を欲しいと念じ、懐妊したので、こんどこそ男の子であろうと思っていたら、また女の子だった。
そこで、陰陽の神を祀る手原の天神さんに祈ったら叶えられるであろうと、手を腹の上に当てて、毎日男の子を授かるよう祈った。
こんどは一念が神に通じたのか、男の子が生まれた。
世間では手孕児(てはらこ)だといい、神の不思議な力をたたえた。
手腹ともいったが、やがて手原という地名になり、天満神社は安産の神さまとなった。」
手原の由来は、この手孕が語源だという説があります。
天満神社は、白鳳時代(655年)から伝わる古社だということが、掲示板にも書かれていました。
斉明天皇の御代というのは、655年~ 661年で第37代の天皇になります。
天智天皇や天武天皇のお母さんで、次の第38代天皇が近江京の天智天皇です。
因みに、斉明天皇は、皇極天皇として、642年~645年に第35代天皇として重祚している天皇さんです。
645年といえば大化の改新で有名ですが、その主役の天智天皇が近江京を開く間の時代だということになります。
天満神社の参道は、公園と一緒になっており、公園の上を名神高速道路が走っていました。
明るい本殿の前、二の鳥居の前には、二本の松が植えられていました。
まるで、阿吽の狛犬のようですが・・・・
あれ、ここは狛犬がいませんね。。。
とりあえず本殿にお参りしました。
その前には、天満宮の常識、牛の像がありました。
前回に荒神山神社も牛が神の使いとして石像がありました。
また、荒神山の麓の遥拝殿のすぐ前には、天満宮が祀られていました。
どうやら、幸神と天神さんは深いかかわりがありそうな気がします。
後に道真公が天神さんになったのも、出雲系由来だと思います。
本殿の横に石のお社が祀られていました。
ご祭神は、確認できませんでした。
さて、今回の散策のご挨拶を終え、参道を戻ると、次のポイントに向かいます。
今回の目当ての神社です。
道中、やはり今回もありましたよ。
ツインの夫婦地蔵。
もはや、幸神詣のシンボルというか目印になってきました。
今回のは、お堂でなく、道端のお地蔵様ですから、もろに道祖神であり、路傍の神です。
幸神そのものですね。
因み、先日京都の清荒神にお参りしてきました。
その時も女夫(夫婦神)が祀られていました。
ここは、近江限定のブログなので、興味のあるかたは、七色堂の記事を参照してください。
手原駅から、10分前後でしょうか・・・歩いた距離に三輪神社が鎮座しております。
やはり出雲系で、ご祭神は、大国主命です。
「明細書によれば創祀年代不詳であるが、社記によると天平十六年に勧請とも伝えられ、文徳天皇仁寿元年に正六位上の神位を贈られている。
又縁起書に宇多天皇十六代の後胤従四位伊賀守玄信歩が大橋の地に住居の時、三輪明神に御祈誓ありて奥方御懐妊せられ、嘉元二年男児誕生されたが、不思議な事に三輪の二字明らかに顕われた、これ全く明神の御化身であると悦ばれて三輪若丸と名付けられた、この若丸は建武元年に逝去され大橋の里に葬られたとある。」
この神社は、ドジョウ祭りという珍しいお祭りが残っています。
ドジョウ寿司を作って奉納するのですが、このドジョウは、神への生贄の代用だということです。
大昔、この地に神使いの白蛇が現れたそうです。
そして、例祭には、この白蛇に生贄として人身御供をささげていたそうです。
その名残というか、現在は、人身御供の代わりにドジョウ寿司を捧げるそうです。
さて、お参りです。
鳥居を潜り参道脇に祓戸神が祀られていました。
ここで、禊をして本殿へ向かうスタイルは、三輪山の大神神社と同じですね。
少し、荒神山神社の祓戸神との繋がりも感じてしまいました。
で、本殿です。
そして、境内社
天満宮。
やはり、出雲と天神さんは関わっていますね。
そして、
天照皇大神宮。
前回の荒神山山頂の日向神社と三輪山の日向神社。
出雲族の太陽信仰を伝えているような気がしました。
後は、お稲荷さん
そして、境内に薬師堂が建っていました。
その薬師堂の横には、また多くのお地蔵様が。
そして、その中には、やはりツイン地蔵が。
ツイン地蔵て一般的なのかな・・・と思って、近所の同じように地蔵様が集まっているところをみたのですが、同じくらい地蔵様が祀られているのに、一体も見つけることができませんでした。
ツイン地蔵と幸神信仰或は、出雲族との相関を調べると面白いかもしれませんね。
今後も、機会があればチェックしてみたいと思います。
さて、もう一つ気になるものが、
ただならぬ、気配で、
何を祀っているのかと思いきや・・・
想像もしていなかった、愛宕さんでした。
京都愛宕山の神に勝軍地蔵という、甲冑をまとい、騎馬している変わったお地蔵様がいらっしゃいます。
この地蔵さんの名は、塞ノ神の転訛だという説があります。
七色堂の清荒神の日記にも少し触れましたが、愛宕神も荒神同様、幸神がモデルである可能性を感じるのです。
それが、ここでも見られたわけです。
いろいろと繋がってくるものです。
三輪神社を後にして、次のポイントへ向かいます。
つづく
前回からの続きです。
酒井、両社神社を出て最後に目指すは、今回の目的地です。
その道すがら、こんな道標がありました。
旧酒井町、
酒井神社の由来となった、この地に酒の泉が湧いたという町です。
しかし、養老の瀧じゃあるまいし、酒の泉が湧きだすとは・・・・
そんな現象は、実際にあるわけありません。
これは、どんな事象を表しているのでしょうか?
酒のような甘い水が湧きだしたのでしょうか?
それとも、酒造りの秦氏がこの地に住みついたのでしょうか?
うーん・・・ちょっと確認することができません。
この町は、もう少し東が琵琶湖で船着場があったようです。
酒がここに運び込まれたということも考えられますね。
その道路を少し北へ進むと、藤ノ木川があります。
これは、河口付近で、すぐに琵琶湖です。
川を横切って国道が走っています。
そこから少し川をさかのぼって、
その川沿いにお目当ての幸神神社(さえのかみじんじゃ)が鎮座しております。
ご祭神は、天照大神です。
幸神(サイノカミ)といえば、一般的には、塞ノ神であり、道祖神とされる猿田彦神や久那斗神等がその祭神に祀られます。
「創立は延暦二十年に勧請したと伝えられる。
往時、社号を奥成社と称し、日吉大社社外百八社の一社である。
元亀兵乱に焼け、後に小祠を建てて再興して現在に至る。」
延暦20年は、西暦の801年です。
桓武天皇の時代です。
801年は、坂上田村麻呂公が蝦夷討伐に向かった年で、
その折の記録が、草津の立木神社の由緒にも残っています。
「延暦20年(えんりゃく)(801年) 征夷大将軍・坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を祈願され大般若経一部を寄進しました。」
今の祭神は天照大神ですが、以前は、奥玉神・道祖神・船玉神とも称していたようです。
道祖神から、今の幸神神社に変名されたのでしょうが、奥成社は、奥玉神からきている可能性を感じます。
奥玉神、道祖神、船玉神はいずれも幸神の別称のようです。
奥成社は興成社とも書きますが、東大寺二月堂の守護神に興成神社 が祀られています。
「修二会において、最初と最後にお参りされる三社、興成神社・飯道神社・遠敷神社。こちらの三社は二月堂練行の神社で、三社とも実忠和尚の勧請と伝える。飯道・遠敷・興成の三社はいずれも二月堂鎮守神である。」
この興成神社のご祭神は、豊玉姫です。
坂本の奥成社のご祭神が、奥玉神。
どうやら、豊玉姫と奥玉神は同神の可能性がありますが、元は違った神のように思います。
興玉神 という神が伊勢内宮に祀られています。
「興玉神は、内宮の所管社30社のうち、滝祭神に次ぐ第2位である。御垣内の西北隅にある石畳の上に西向きに鎮座する。
祭神は社名と同じ興玉神(おきたまのかみ)。正宮の守護神である。
『神名秘書』によれば、猿田彦大神またはその子孫である大田命の別名であるという。
鎌倉時代には宮域の地主神・猿田彦大神として興玉神を祀り、神嘗祭と月次祭の御贄供進の際に祭祀が行われ、重視されてきた。」
同様に、興玉神のほか、
宮比神と屋乃波比伎神も内宮の御垣内に鎮座しており、この三柱は、内宮の守護神とされています。
創建は、平安時代だそうです。
幸神神社の祭神がどういう経緯で奥玉神、道祖神、船玉神から、天照大神に変わったのかわかりませんが、もしかすると奥玉神と伊勢内宮の関係があったのかもしれません。
先に訪れた酒井神社と両社神社には、「おこぼ神事」 という大津市指定の無形民俗文化財が伝承されています。
「酒井神社における年頭行事「おこぼ」は「御講坊」とも「御講房」とも書くが、その語意はわかりません。伝承によると、むかしから一月七日の夜になると、瀬田の 唐橋にすむ竜神が両社川を上って人身御供を取りにきたと言われ、七才の男 の子のいる家の屋根に白羽の矢が立ったともいわれています。
また、この日は竜が両社川 を上ってくるというので舟も 少し北側にある幸神(サイノカミ)神社の御旅所の浜に仮泊をして川口をあけていた。この夜はオョージ(便所)に行くとカイナデが出てきて尻 を撫でるといって気味悪がり、行かなかったほどであったそうです。
ある年、ジロスケさんという人がこの竜を便所の窓から見たために目が潰れたといい、その姿は「蛇の目(傘)をさした立派な男の人だった」。その後、人身御供のかわりに餅(オダイモク)を供えるようになったと伝えられています。」
両社川は、この藤ノ木川の少し南に流れている川です。
そこへ瀬田の竜神さまが遡ってくるため、それを遮る船を幸神神社の浜に移動させておくようです。
船玉神というのは、こういった意味があるのかもしれません。
しかし、もっと深い意味で、この幸神神社を含む神事には、幸神信仰が残っているのだと思います。
白い矢と尻をなでる神・・・
丹塗りの矢に化けて厠でホトをついた三輪山の神を想起します。
三輪山の神は蛇神ですが、ここは竜神さまです。
いずれにせよ矢は男性器のシンボルですから、幸神でもあります。
そしてこの神事で行われる餅つきの杵と臼は、杵が男で臼は女のシンボルであり、その作業で造られる餅は、子供を譬えます。
人身御供の子の代わりに、この餅を竜神さまに備えるわけです。
おこぼ祭は、豊穣祈願と厄祓の祭りであるため、祓いの要素もあり、「湯立て神事」も行われます。
湯立てに使われる釜戸は、子宮の意味があり、幸姫命のご神体として祀られる場合があります。
ちょうど、ここしばらくは古代出雲族に関係深い幸神信仰を探っていたので、
この幸神神社へ詣でることにしたのです。
帰りは、藤ノ木川を遡り元来た駅へ戻ります。
山手には、日吉大社の霊山、八王子山も見えています。
駅には綺麗な桜が花開いておりました。
少し家で休憩し、夜は恒例の酒場へ繰り出しました。
少し夜桜も楽しめましたよ。
おわり
前回からの続きです。
ちょうど桜が咲き始めてきたところでした。
街路樹のごとく何本かの桜に花がついています。
少し目を引いたのは、そんな桜の木の下にお地蔵さまが祀られていることでした。
少し距離を開いて、また桜の木にお地蔵さまが祀られていました。
前のは、道路側を向いていましたが、今度のは、道路と反対側の田んぼの方を向いていました。
不思議だったのは、このお地蔵さまは、胸から下が埋もれていたのです。
もしかすると、廃仏毀釈の折に捨てられた仏様を祀っているのかもしれないと思いました。
坂本も廃仏毀釈の影響は強かったようです。
よく見ると、僕はその祀り方からお地蔵さまと思っていましたが、別の石仏様かもしれません。
頭の形が地蔵さまではないような・・・如来ぽく感じます。
神社巡りをしていると、多くの場合、明治の宗教改革の爪痕に出会います。
今、我々が見る神道の形は、明治時代に作り変えられたもので、政治的思惑が根本にあります。
それ以前の信仰とは異なっている場合があります。
ここでは、多くを語るつもりはないので、
次に行きましょう。
なにげに西光寺というお寺がありました。
由緒あるお寺のようです。
この道をまっすぐ進むと、すぐに琵琶湖畔に出ます。
船着場が近くにあったようです。
今は、普通のお家といった感じのお寺です。
少し進むと、道の両脇に神社があります。
僕は、二度目の来訪です。
まず、酒井神社にお参りしました。
ご祭神は、大山咋神です。
坂本、日吉大社の祭神ですが、この神は京都の松尾大社のご祭神でもあります。
松尾大社は、酒造りに関わっていた秦氏の氏神でもあり、この地が酒の泉が湧いたという伝えから、大山咋神が祀られているのだと想像しました。
「社伝によれば、その創建は、弘仁元年(810)、下阪本の梵音堂(下阪本四丁目)にある磊 (大きな石)から酒が涌きだし、その酒の精は大山咋神であるとの神告をうけたため、人々は社を建てて磊を神体として祀るようになったといわれます。この場所は、旧社地として今も残っております。元亀二年(1571)、織田信長の比叡山焼き打ちによって罹災しましたが、天正十六年(1588)に再建され、 現在の本殿は、棟札によって、元和六年(1620)に広島藩主浅野長晟によって建立されたこ とが知られます。現在の社地に移されたのもこの時であります。 本殿は、一間社流造で屋根は檜皮葺、滋賀県指定文化財。 また、酒井神社では、正月六日から八日まで五穀豊穣を願う「おこぼさん」がおこなわれてお り、大津市指定の無形民俗文化財となっています。」(公式HPより)
本殿です。
その横の境内社
この神社には面白い石碑が立っています。
僕は、琵琶湖の水が溢れるなんてことはないと思っていたのですが、
ここに来て、それは間違いであり、昔はわりと溢れていたことがあったようです。
しかも、こんなに浸水していたとは・・・
石碑の文字の上部分の線まで水が来ていたようです。
滋賀県の川はすべて琵琶湖に流れ込みます。しかし琵琶湖から流れ出る川は瀬田川一本です。
昔は、瀬田川の川幅が狭く、入ってくる水量より流れ出る水路の出口が狭くて溢れることがあったようです。
今は、その川幅を掘削し広げていますので、溢れることはなくなりました。
瀬田川の観光船に一番丸というのがあるのですが、
それに乗ると、昔は川幅が狭かったというアナウンスが流れて広げられた場所を紹介されます。
次に道路を隔てた向かいの神社にお参りしました。
両社神社です。
ご祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 です。
「創立は、元仁年間(1224~25)、高穴穂神社の祭神を酒井神社の旧境内に勧請したことにはじまるという。・・・・」
高穴穂神社とは、坂本の近く穴太にある神社で、
「祭神景行天皇は即位五十八年近江滋賀に遷都され高穴穂宮と称したが、在位三年で崩御(百大歳)された。
次帝成務天皇は先帝の御遺徳を追頌され、高穴穂宮の内に祀り天徳前王社また前王宮と称した、これが当社の発祥と伝えられる。」
といった由緒があります。
近江は、天智天皇の大津京や紫香楽京といった都は有名ですが、他に前にここでも紹介した保良宮や、この高穴穂宮があります。
その中でも、高穴穂宮はヤマトタケルの父である景行天皇の時代ですから、四つのうちの最古になります。
ただ、この都は伝説上という説もありますが・・・
この景行天皇の子に成務天皇がおり、この天皇の時代に各地の国造が多く配置されたといいますから、国としての支配制度が確立しだした時代なのかもしれないですね。
その中心に高穴穂宮があった可能性があると思います。
さて、その高穴穂神社から勧請された神が伊邪那岐命、伊邪那美命です。
この両社神社の神紋は兎なのですが、
兎は、伊邪那岐命の使いとされており、坂本より南より、大津京に近い三井寺に三尾神社が鎮座しております。
ここには、こんな話が残されています。
「「寺門伝記」補録第五三尾明神祠に三尾明神について書かれている。
三尾明神はその昔伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神となられた。
この神は常に三つの腰帯をつけておられた。ある時その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となられ、それぞれ三ヶ所で出現された。
最初の出現は赤尾神で、上の三尾(琴尾山 山上の祠)と称されたが、出現の時は太古卯年の卯月卯日卯の刻というだけで何の時代の何年という事が不明である。
第二の出現は白尾神で、場所は現在の三尾神社(筒井の祠)とされている。出現の時は文武天皇の大宝年間の夏というだけで何年という事が知られていない。
第三の出現が黒尾神で鹿関の地でこの神のみが称徳天皇の神護景雲三年三月十四日の出現とされている。
三神とも御本体は一つで伊弉諾尊となっている。之を上の三尾・中の三尾・下の三尾と称されていた。」
イザナギ命は、卯年の卯月卯日卯の刻に降臨されたということで、三尾神社の神紋は、「真向きのうさぎ 」であり、この神社は、兎の神社として卯年には、多くの人が初詣に訪れます。
そして、両社神社も兎の神社のようです。
古代の大津市は、もしかすると伊邪那岐命の地だったのかも・・・
もしかすると、伊邪那岐命に象徴されるある神々の信仰の土地がベースにあるのでは・・・という気がします。
では、本殿と境内社です。
両社神社を出て、最後にもう一社、今回のお目当ての神社へ向かいました。
その報告は次回に回して、今回はここまでにしておきます。
つづく
随分、更新が滞っています。
寒い冬が終わり春が来たらと思ったら、
なんだか、寒暖の差が激しくなんとなく過ごしづらい日が続いています。
春らしい晴天も珍しく桜の季節も終わりになりましたが、
せっかくの桜の季節なので少し出歩いてみました。
とうわけです、散策シーズンも到来。
まずは、坂本へ訪れてみました。
今回は、京阪電車石坂線の松ノ馬場駅からスタートです。
ここは、坂本駅の一つ手前。
坂本といえば、比叡山の麓、日吉大社に参詣される方が多いと思いますが、
その付近もいろいろと面白いのです。
駅を山側に少し歩くとお堂がありました。

わりと車が通るのですが、ここを左折して少しあるくと十一面観音像が立っています。

そこの角に倭神社という石碑が立っているのですが、その角をさらに山側に坂を上っていきます。

そこには、倭神社が鎮座しておりました。
最初は、昔訪れたことがある滋賀里の倭神社と勘違いしていたのですが、
ここに訪れたのは初めてです。
御祭神は、
日本武尊
配祀神に、両道入姫皇女 稲依別王
御由緒
「創祀年代は不詳であるが、当社は延喜式内滋賀郡八座の一(論社)であり、日吉大社境内百八社の一社である。 又天台宗無動寺の鎮守社として崇敬をうけた。 昭和十四年村社に列格し、同年神饌幣帛料供進指定」
日本武尊を祀る古い神社なのです。

石段を登りお参りしました。
お社はさほど大きくないですが、結構立派な神社です。



お参りを済ませると坂を下って戻ります。
目線の先には琵琶湖と三上山が見えています。

いったん松ノ馬場駅までもどり、今度は琵琶湖側に歩く方向を変えます。
すぐ近くに長澤神社が鎮座していました。


小さな神社で神社名も石灯籠に刻まれているだけです。

野洲に天瀬織津姫尊を祀る長澤神社と同じ名を持つ神社がありますが、
この坂本の長澤神社は、
「往古一帯の沼地であった此の地を開拓し良田とされた、日吉大社の神官石遠公を氏神として奉斎する神社であり、長沢は公の棲居地であった。 創立年代は不詳、日吉境外百八社の一社である。」
と、祝部石遠公 をお祀りしております。
さくっとお参りして、さらに湖岸へ向けて散策します。
つづく
寒い冬が終わり春が来たらと思ったら、
なんだか、寒暖の差が激しくなんとなく過ごしづらい日が続いています。
春らしい晴天も珍しく桜の季節も終わりになりましたが、
せっかくの桜の季節なので少し出歩いてみました。
とうわけです、散策シーズンも到来。
まずは、坂本へ訪れてみました。
今回は、京阪電車石坂線の松ノ馬場駅からスタートです。
ここは、坂本駅の一つ手前。
坂本といえば、比叡山の麓、日吉大社に参詣される方が多いと思いますが、
その付近もいろいろと面白いのです。
駅を山側に少し歩くとお堂がありました。
わりと車が通るのですが、ここを左折して少しあるくと十一面観音像が立っています。
そこの角に倭神社という石碑が立っているのですが、その角をさらに山側に坂を上っていきます。
そこには、倭神社が鎮座しておりました。
最初は、昔訪れたことがある滋賀里の倭神社と勘違いしていたのですが、
ここに訪れたのは初めてです。
御祭神は、
日本武尊
配祀神に、両道入姫皇女 稲依別王
御由緒
「創祀年代は不詳であるが、当社は延喜式内滋賀郡八座の一(論社)であり、日吉大社境内百八社の一社である。 又天台宗無動寺の鎮守社として崇敬をうけた。 昭和十四年村社に列格し、同年神饌幣帛料供進指定」
日本武尊を祀る古い神社なのです。
石段を登りお参りしました。
お社はさほど大きくないですが、結構立派な神社です。
お参りを済ませると坂を下って戻ります。
目線の先には琵琶湖と三上山が見えています。
いったん松ノ馬場駅までもどり、今度は琵琶湖側に歩く方向を変えます。
すぐ近くに長澤神社が鎮座していました。
小さな神社で神社名も石灯籠に刻まれているだけです。
野洲に天瀬織津姫尊を祀る長澤神社と同じ名を持つ神社がありますが、
この坂本の長澤神社は、
「往古一帯の沼地であった此の地を開拓し良田とされた、日吉大社の神官石遠公を氏神として奉斎する神社であり、長沢は公の棲居地であった。 創立年代は不詳、日吉境外百八社の一社である。」
と、祝部石遠公 をお祀りしております。
さくっとお参りして、さらに湖岸へ向けて散策します。
つづく
すっかり出不精になってしまったのと梅雨入りでなかなか更新ネタもなかったのですが、
やはり体を動かさないと、このジメジメした時期はいけないな・・・と思っていた所、
朝から梅雨とは思えない天気だったので、急遽出かけてみました。
今回のエリアはJR南草津駅から西側です。
南草津駅というのは、僕の子供のころは存在しませんでした。
その辺りは田んぼだらけでした。
今はひらけています。
まず、駅から西に向って直線道を歩き川の下という交差点まで行きました。
そこを右折したところに猿田彦神社が鎮座しています。
何故、こんなところに猿田彦が祀られているのだろう?と思いきや、
「明細帳によれば創祀年代不詳であるが、この地は栗太郡内古道の一つで、南大萱、南笠、矢倉を結ぶ街道と、矢橋街道の分岐点に当る要地で、この為寛元二年に伊勢国浦田の里から猿田彦を勧請したと伝えられる。」
ということで、岐の神として祀られていたわけですね。
駅付近は新しい町ですが、この辺りは古い町の様相です。
御祭神は、もちろん猿田彦命。
境内社に、稲荷神社、 臼命神社、 愛宕神社が祀られています。
お参りをすませると、栗太郡の古道、川の下までもどり、交差点から南へ真っ直ぐ歩きます。
道中、寂れた祠が目に入りました。
その祀り方から弁天さんだと思われます。
祠を半分ほど囲むかたちで池があり、魚でもいるのか住人が何かをまいていました。
ドボンという大きな音がしていたので大きな魚がいるのでしょうか?
祠の中には、やはり白蛇の置物があったので、弁天さんのようです。
ちょっと、お参りしてまた歩を進めます。
しばらくすると川があり、その川にそって稲荷神社が祀られていました。
御祭神は、宇迦之御魂神または豊受姫とされています。
この南田山の地域は、5世紀には開拓された古い地域で、古墳群があるようです。
この境内にも円墳一基が現存しております。
また、7世紀に近江国府が瀬田におかれると東国への重要な官道がこの前を通ったようです。
本殿です。
その横にある古墳。
ぽっかり穴をあけており、その上には祠が祀られていました。
稲荷神社を出ると更に南へ歩きます。
今日のメインの神社を目指します。
途中、紫陽花の群生している橋がありました。
この川は、十禅寺川というようです。
おそらく山王信仰と関係あるように思います。
ここからすぐのところに治田神社が鎮座しております。
治田氏は、この辺りを開拓した氏族で、彦坐王の子孫です。
治田氏については以前、少し追ってみたことがあります。
(七色堂「治田氏と龍神」参照)
その治田氏の祀る治田神社です。
「雄略天皇六年、この地方の開拓者治田連彦人が祖神として、開化天皇とその皇子彦座命の神霊を勧請したのに創ると伝えられる。」
御祭神は、開化天皇、 彦坐命、 大海真持連
彦坐王は治田氏の先祖さん。そして第9代開化天皇は、彦坐王のお父さんです。
彦坐王の腹違いの兄が、第10代崇神天皇です。
また、彦坐王の子の丹波道主命は四道将軍の1人で丹波に派遣され、
その娘の日葉酢媛命は、第11代垂仁天皇の后となり第12代景行天皇や倭姫命等を産んでいます。
また彦坐王の子の山代之大筒木真若王は、神功皇后の曽祖父であり息長氏の血筋となります。
そんなわけで、とても重要な血筋となっています。
明治四十四年に天神社の祭神饒速日命を合祀しています。
やはり立派な神社でした。
治田氏といえば亀がシンボルです。
「和銅八年天下旱魃にて作物成長せず、農民皆雨乞祈願をした。その時、里の山中の洞穴より霊亀這い出して大雨沛然と降り作物は蘇生した。この亀は左目白く首赤く背三に分れ、七星の紋ありという、亀のいでたる所を大亀川又は老上川、現在は狼川という。」
この伝説はJR瀬田駅前に鎮座している治田氏の神社、萱野(カヤノ)神社にも伝わっています。
それから、治田神社の境内には面白いものがありました。
何か、方位と関係あるのでしょうか・・・・
干支の彫刻もいくつか置いてあります。
一通りお参りすると帰る前に、もう一社だけ少し道を外れるのですが、行ってみたい神社があります。
治田神社から田んぼを西に抜けていきます。
今の季節は、麦が黄金色に実って綺麗です。
また、田んぼには稲が育っています。
この地域の水田は、「環境こだわり農作物栽培ほ場」として、
汚濁水の環境への影響を配慮して、農薬も半分に抑えています。
環境だけでなく健康にも良さげですね。
さて、お目当ての神社です。
竜宮神社といいます。
御祭神は、豊玉姫命です。
「後陽成天皇の御宇慶長八年鎮座と伝えられ、明治九年村社に加列の際、八大龍王神社を龍宮神社に改称された。」
思っていたより立派な神社でした。
境内社に貴船神社と嚴島神社が祀られています。
いずれも水の神です。
そしてここにも亀がいましたね・・・
この神社は、時代的に治田氏の時代より随分新しいのですが、やはり龍神信仰は残っています。
また、もしかすると治田氏というか彦坐王と竜宮伝説とは深い結びつきがあるのではないか・・・と思います。
これは丹後にも繋がっていますし、亀は竜宮へ行く浦島太郎の乗り物でもありますからね。
先にお参りした5世紀に開拓された稲荷神社の祭神が豊受姫であるのも丹後の元伊勢の豊受姫とも通じます。
そろそろお昼時になりました。
今回はプチ散策ということで、これで散策は終りです。
少し歩くと川が流れています。
ああ、これが狼川です。
まさか、大亀が狼になっているとは思ってもみませんでした・・・
もう少し歩くとパン屋が目に入ったので、ちょっと覗いてみました。
お土産に買って帰りましょう。
そして、どこかで昼食をとりビールといきますか。。。
2時間ばかしの散策でしたが、なかなか意味深い散策だと思いました。
天気も夏のようで肌がチリチリします。
まだ梅雨も入ったばかりなのにね。。。
近江大橋を渡り東岸の草津イーオンで買物を済ましたあと、
そこから南へ国道一号線の方角へ歩く事にしました。
ちょうど大萱町を歩くことになります。
最初に訪れたのは、貴船神社です。

滋賀県神社庁の検索にはヒットしませんね。
貴船の神様といえば水神です。
代表的なのは高龗神ですね。
ここもそうでしょうか?
ちょっと確認はとれていません。
ただ、船の神様として祀る場合もあります。
ここは、大萱の浜といったそうです。
今は住宅が立ち並んで浜ではありませんが・・・

琵琶湖で運ばれた物資がこの浜に着岸し、
国府に運ばれたそうです。
前回の近江国府と繋がっているのですね。

確かに、神社の横には川が流れています。

大津のかんきょう宝箱のHPには、この浜を照らす常夜灯が掲載されています。
貴船神社からさらに南へ歩いていると、
こんな石碑がありました。

織部高山古墳跡
銅鏡が出土しているようです。
この織部高山古墳跡、今は西浦神社が鎮座しております。


ここは十禅師山と言ったようですね。
日吉大社とも関係ありそうです。
西浦神社も検索にヒットされません。
御祭神は、天津彦火火出見命と書いてあるのでしょうか・・・
ちょっと下部が読み取れません。

ここから国道へはあとわずかです。
お昼御飯を食べていなかったので、早めの夕飯を取ろうと国道沿いの回転寿司へ向いました。
実は、今日は氏神様のお祭でした。
お寿司が食べたくなったのです。
昼食を終えると、石山方面へ国道を歩きます。
歩き出すとすぐに若松神社がありました。
ちょっと寄ってみます。
若松神社は、8町×8町の範囲がある近江国府の四つ角には、それぞれ神社が祀られているそうで、その北西の角に位置する神社です。

「創立は欽明天皇御宇勧請とされ、社頭高十石五斗領主より代々寄進があった記録があり。その他の社伝に称徳天皇神護景雲元年に下総国香取神宮の御祭神を奈良春日神社に勧請の際、当地に滞在され、その後宝亀八年湖水の絶えた時、光仁天皇が周辺の神社に御祈願され、満珠を得られたことから御祭神を若松大明神改められ、勅願によって奉斎されたのが当社の創祀とも伝えられる。」
由緒ある立派な神社です。

御祭神は、經津主尊 です。
本殿横には、摂社末社が祀られています。

日吉神社、出雲神社、市杵嶋姫神社

若松龍神様

白蛇様
ここには白蛇伝説が残っています。

「今から約九百五十年前、瀬田に江ノ侍従と云う貧しいけれども心のやさしい信仰心の深い女官が住んでいた。
或る夜嵐が起こり夜中に目を覚ますと外に神々しく気高い女性が雨に濡れて立っておられるので、気の毒に思い招き入れ一夜の宿を貸すと嵐は忽ち止んだ。
やがてその女の方が申すには「私は貴女の好意に感謝し必ず貴女等を守り子孫七代の末迄幸運を授けましょう。
その証は夜が明ければわかります。」
と云って、たちまち六寸の白蛇になった。
夜が明けると庭に一本の若松が生えており、侍従はその白蛇の霊をあがめ社殿を建立、依頼若松宇賀大明神として斎き祀る。」
で、宇賀神社が祀られています。

更に八坂神社

また、お稲荷さんも

この神社も横には川が流れていました。
参道には若松不動が祀られているのですが、位置的に昔はその川で禊をしていたのかもしれないな・・・
と思いました。
この境内には、古墳があります。

久保江古墳。
6世紀末期の豪族の横穴式石室が出土しているようです。
この辺りも古い土地だったのですね。
神社を出ると瀬田の国道橋を渡ります。

ここから瀬田の唐橋が見えますが、川の左岸に国府があり、右側に保良宮があったわけです。
国道橋を渡り湖岸を歩きました。
この日はレガッタが開催されておりボートがたくさん浮かんでいました。

天気もよくのどかな休日です。
ここは粟津の晴嵐と呼ばれる近江八景の景勝地でもあります。

今は、穏やかな土地ですが、
かつては、もう少し南になるのかもしれませんが、
神功皇后の時代には、忍熊王と武内宿禰の戦い。
壬申の乱。
源平の木曽義仲の戦い。
など、多くの血が流された場所です。
そんなことも考えながら、今の平和が末永く続くことを祈りながら帰途につきました。
そこから南へ国道一号線の方角へ歩く事にしました。
ちょうど大萱町を歩くことになります。
最初に訪れたのは、貴船神社です。
滋賀県神社庁の検索にはヒットしませんね。
貴船の神様といえば水神です。
代表的なのは高龗神ですね。
ここもそうでしょうか?
ちょっと確認はとれていません。
ただ、船の神様として祀る場合もあります。
ここは、大萱の浜といったそうです。
今は住宅が立ち並んで浜ではありませんが・・・
琵琶湖で運ばれた物資がこの浜に着岸し、
国府に運ばれたそうです。
前回の近江国府と繋がっているのですね。
確かに、神社の横には川が流れています。
大津のかんきょう宝箱のHPには、この浜を照らす常夜灯が掲載されています。
貴船神社からさらに南へ歩いていると、
こんな石碑がありました。
織部高山古墳跡
銅鏡が出土しているようです。
この織部高山古墳跡、今は西浦神社が鎮座しております。
ここは十禅師山と言ったようですね。
日吉大社とも関係ありそうです。
西浦神社も検索にヒットされません。
御祭神は、天津彦火火出見命と書いてあるのでしょうか・・・
ちょっと下部が読み取れません。
ここから国道へはあとわずかです。
お昼御飯を食べていなかったので、早めの夕飯を取ろうと国道沿いの回転寿司へ向いました。
実は、今日は氏神様のお祭でした。
お寿司が食べたくなったのです。
昼食を終えると、石山方面へ国道を歩きます。
歩き出すとすぐに若松神社がありました。
ちょっと寄ってみます。
若松神社は、8町×8町の範囲がある近江国府の四つ角には、それぞれ神社が祀られているそうで、その北西の角に位置する神社です。
「創立は欽明天皇御宇勧請とされ、社頭高十石五斗領主より代々寄進があった記録があり。その他の社伝に称徳天皇神護景雲元年に下総国香取神宮の御祭神を奈良春日神社に勧請の際、当地に滞在され、その後宝亀八年湖水の絶えた時、光仁天皇が周辺の神社に御祈願され、満珠を得られたことから御祭神を若松大明神改められ、勅願によって奉斎されたのが当社の創祀とも伝えられる。」
由緒ある立派な神社です。
御祭神は、經津主尊 です。
本殿横には、摂社末社が祀られています。
日吉神社、出雲神社、市杵嶋姫神社
若松龍神様
白蛇様
ここには白蛇伝説が残っています。
「今から約九百五十年前、瀬田に江ノ侍従と云う貧しいけれども心のやさしい信仰心の深い女官が住んでいた。
或る夜嵐が起こり夜中に目を覚ますと外に神々しく気高い女性が雨に濡れて立っておられるので、気の毒に思い招き入れ一夜の宿を貸すと嵐は忽ち止んだ。
やがてその女の方が申すには「私は貴女の好意に感謝し必ず貴女等を守り子孫七代の末迄幸運を授けましょう。
その証は夜が明ければわかります。」
と云って、たちまち六寸の白蛇になった。
夜が明けると庭に一本の若松が生えており、侍従はその白蛇の霊をあがめ社殿を建立、依頼若松宇賀大明神として斎き祀る。」
で、宇賀神社が祀られています。
更に八坂神社
また、お稲荷さんも
この神社も横には川が流れていました。
参道には若松不動が祀られているのですが、位置的に昔はその川で禊をしていたのかもしれないな・・・
と思いました。
この境内には、古墳があります。
久保江古墳。
6世紀末期の豪族の横穴式石室が出土しているようです。
この辺りも古い土地だったのですね。
神社を出ると瀬田の国道橋を渡ります。
ここから瀬田の唐橋が見えますが、川の左岸に国府があり、右側に保良宮があったわけです。
国道橋を渡り湖岸を歩きました。
この日はレガッタが開催されておりボートがたくさん浮かんでいました。
天気もよくのどかな休日です。
ここは粟津の晴嵐と呼ばれる近江八景の景勝地でもあります。
今は、穏やかな土地ですが、
かつては、もう少し南になるのかもしれませんが、
神功皇后の時代には、忍熊王と武内宿禰の戦い。
壬申の乱。
源平の木曽義仲の戦い。
など、多くの血が流された場所です。
そんなことも考えながら、今の平和が末永く続くことを祈りながら帰途につきました。
先日、大津市歴史博物館主催の「保良宮と近江国府」という講座に参加してきました。
講座の内容は、七色堂にアップしております。
近江国府跡は以前に訪れたことがあるので、保良宮跡へ行ってみようと考えました。
しかし、この保良宮・・・まだ、どこにあったのかはっきりとわかっていないのです。
とは言え、その遺跡だとされているものは残っており、そこを巡ってみようと思います。
ちょうど、これは僕の地元の地域なので気軽に歩ける距離なのです。
GW中の散策を計画していたのですが、
昨日、散髪に行ったついでに一つのポイントが近くにあるので足を向けてみました。
この日の最初のポイントは、将軍塚です。
大津市美崎町。国道一号線沿いにあるスーパーマツヤの裏辺りにあると情報を得て行ってみました。
住宅地の中、住居に囲まれた場所にありました。
解りにくいです。
久しぶりの散策なのか感も鈍り、かなり彷徨いました。
これが、将軍塚です。
将軍塚は、壬申の乱の敗者大友皇子側の将軍が葬られた場所だと伝えられています。
近くには、茶臼山という山もありそこは、大友皇子とその侍臣および大友皇子の子、大友与太王の葬り塚があります。
しかし、大友皇子の時代は保良宮より前です。
壬申の乱、672年
保良宮、761年
この将軍塚がなぜ保良宮と関係しているのかというと・・・
草ぼうぼうの塚には大きな石があって、それが保良宮の礎石だというのです。
このヘソのようにポッチリがある石がその礎石です。
このタイプはこの時代にしかみられないため、時代が特定できるそうです。
保良宮跡はまだ発掘できていませんが、礎石はいくつか見つかっています。
今回は、その礎石を巡ってみることにしました。
美崎町から真南の国分町へ下っていきます。
西側は山です。東側は琵琶湖になるのですが、
この東側のJR石山駅辺りが保良宮があったのではないか・・・と考えられているようです。
もしかすると、その保良宮の西の際に沿って歩いたことになるかもしれません。
ちょうど東レの敷地の間を通る形です。
今回は、地元ということと散髪屋の帰りということで、地図を持たずに歩きました。
方向感覚はありますが、さすがに迷います。
同じところを行ったり来たりしました。
松尾芭蕉の住んだ幻住庵を目印に向ったのは、近津尾神社です。
なんとなく見覚えのある道を歩いていると鳥居が見えました。
鳥居の横はバス亭になっています。
しかし、参道はすぐに途切れ住宅地の中・・・・
仕方なく、そのまま歩き進みました。
突き当たり、二つに道が分かれます。
幻住庵か太子堂か・・・?
幻住庵は行ったことがあるので、太子堂へ行ってみました。
太子堂は丘の上、結構急な階段を登ります。
久しぶりに心臓がバクバクしました。
「聖徳太子二歳像を安置する。この像は元享元年(1321年)法眼宗圓の作といい、もとは京都府八幡の石清水八幡宮に安置されていたもの。明治2年に神仏分離令により五代目真田武左衛門により国分に移された。」
登り道は少し鬱蒼としていましたが、
上は明るい場所でした。
見晴らしも良いです。
琵琶湖や対岸の三上山が見えます。
この眼下に保良宮は築かれていたのかもしれません。
もう散っていましたが、季節には桜も綺麗だと思います。
ピンクの花びらが地面を染めていました。
今は、藤の季節です。
太子堂から戻ると、
さて、近津尾神社はどこでしょう・・・?
また、鳥居まで戻り、うろちょろしていたのですが、
地元の方が居られたので尋ねると・・・
なんと、幻住庵と同じ場所にあるとか。。。
また、同じ道を戻りました。
幻住庵を目指し山の中を歩きました。
芭蕉が炊事に使った「とくとくの清水」は今も涌いています。
もうすこし上がると神社がありました。
思ったより立派な神社です。
御祭神は、誉田別尊です。
八幡さんで有名な応神天皇のことですね。
「明細書によると、創立年代は不詳であるが、石山寺記録中之巻三によると承安三年後白河院石山寺へ行幸された際、石山寺座主公祐僧都命を受けて勧請、石山寺祈願寺と奉崇すとある。」
後白河法皇が絡んでいるのですね。
そして石山寺と関係あるので立派なのかもしれませんね。
本殿の横には、境内社があります。
明治四十二年に合祀された国分新田の洞神社、雨壷神社です。
今回のお目当ては、この洞神社です。
洞は保良宮のホラからきているということです。
地名の名残です。
御祭神は、高龗神。山の水の神です。
雨壷神社は、天水分神。
いずれも水の神様です。
先ほどの「とくとくの清水」に見られるようにこの山は水が豊富なんですね。
社務所の前あたりから、さらに上にある幻住庵に続きます。
しかし、現在、災害のため公開中止となっていて入ることはできません。
山を降りると神社の表参道に出てきます。
こういうことになっていたのですね。
今回は、ほんとに無駄足が多いです。
ここから、次のポイントへ向うのですが、頭の中の地図が勘違いしており、随分と違う道を進んでしまいました。
明らかにおかしいので、さすがにスマホを取り出し場所を確認。
なんと、また同じ道を戻りました。
幻住庵の前の道を真っ直ぐ南に進めば良かっただけでした。
トホホ・・・です。
そのポイントもまた、見当違いを探して苦労しました。
場所は、道沿いの民家の角にありました。
「へそ石」といいます。
半分、地面に埋まった保良宮の礎石だそうです。
ただし、この石は使われなかったと考えられています。
この「へそ石」の向かい先ほどの幻住庵から続く山がありまして、
この山中にも礎石が転がっているそうです。
また、ここには保良宮跡の石碑が立っているそうですが、
この地に宮があったとは地形からも考えにくく、礎石の加工場か採掘場だった可能性があるようです。
残念ながら、山の中に入る道がわからずそこへは行きませんでした。
以下の画像は、滋賀県文化財保護協会さんのHPから転載させていただきます。

さて、お目当ては達成できました。
予定外に歩いたので足はクタクタです。
石山駅まで出て電車で帰宅することにしました。
その道中、もう一つ礎石がある場所があります。
北大路町の西方寺内です。
このお寺の釣鐘銅の石に礎石が使われてるとか・・・
残念ながら、お寺の門は閉まっていて勝手に入ることはできませんでした。
多分、この釣鐘の下にあるのかな?
見ることができないので、先ほどの滋賀県文化財保護協会さんのHPからまた転載させていただきます。

やはり、この出ベソの石が特徴なんですね。
もしかして、今日歩いた住宅の庭とか、林の中とかにしらずに置き去りにされていたら面白いな・・・
と、キョロキョロしがなら歩きました。
久しぶりの散策はクタクタです。
いつものように酒場へ出向く力は残っていませんでした。
おわり