2017年01月03日 稲枝・豊郷散策1
あけましておめでとうございます!
昨年は、一度も更新できませんでした。
にもかかわらず、毎日閲覧者が複数来られていることに大変うれしく感じております。
しかしながら、そういった読者の期待に応えられずに一年が過ぎた次第です。
いくつか興味を覚えた地があり、地図を用意していたもののなかなかタイミングが合いませんでした。
そんな中、昨日はとても良い天気に恵まれたので、その地図を出してきて家を飛び出しました。
行く先は、稲枝です。
では、久しぶりに散策の記録を報告させていただきます。
ただ、あまりキーボードを叩く余裕がないので、更新はゆっくりになると思います。
そして、かの地は思っていたより難しいところでした。
なかなか、まとめることができない報告になるかと思いますが、ご容赦願います。
さて、昨年あるニュースが記事になりました。
「滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。
一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規模な同時代の建物跡が確認されている。
「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。福永伸哉・大阪大教授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」と話す。」
毎日新聞2016年10月17日の記事です。
要するに、邪馬台国の時代に近江に大きな国が存在していたということです。
近江には、他に、邪馬台国近江説があるくらい大きな遺跡が見つかっております。
邪馬台国ではないにせよ、有力な国が存在していたことは間違いなさそうです。
稲部遺跡は、JR稲枝駅から歩いてすぐの場所にあります。

(地図は、平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」より転載)
駅をおりても田園が広がる地区ですが、ここに弥生時代の大きな国が存在し人々が生活していたことになります。

駅前は、新しい住宅地に変化してきております。
元は田畑だったのを開拓して住宅地になってきているようでした。
遠くに荒神山が見えるのが印象的でした。

この稲枝地区の遺跡について彦根市埋蔵文化財報告書から一部抜粋解説しておくと以下のとうりです。
「稲枝地区の遺跡を見ると、山腹および山麓に立地するもの、河り|1自然提防上に立地するもの、沖積地の微高地上に立地するものの3タイプに大きく分けられる。
このうち、弥生時代の遺跡として知られているものは、曽根沼遺跡・稲里遺跡・上岡部B遺跡・金田遺跡等沖積地の微高地上に立地するものである。
古墳時代の遺跡は、集落跡と考えられるものは弥生時代の遺跡と同様の立地を示し、ほとんど弥生時代の遺跡と複合していると考えられる。また、古墳は大部分が荒神山とその周辺に集中し、平地に立地するものは、出路遺跡・狐塚遺跡等が知られている。奈良時代については、東大寺荘園絵図で知られる覇流荘と言われる曽根沼遺跡がある。仏教関係の遺跡は、自鳳時代の寺院跡は複弁蓮華文軒丸瓦等古瓦の出土が知られる岡部町の屋中寺廃寺と普光寺町の普光寺廃寺が有り、奈良時代から平安時代にかけてのものは、行基創建と伝えられる延寿寺遺跡や平安時代初期創建と言われる国昌寺遺跡0他に宝山寺遺跡等があげられる。
中・近世の城館跡としては、高野瀬隆重築城と伝えられる肥田町肥田城遺跡やこの肥田城遺跡に属すると言われる三津町越川城遺跡があり、また、三津屋町三津屋城遺跡が上げられる。」
以上、ここの調査はまだまだ未開のようであり、これから大きな発見があるかもしれません。
はっきりした遺跡の場所は把握していなかったのですが、少し歩いているとすぐにわかりました。


今も発掘調査は続いているのでしょうか・・・
でも、今はお正月でお休みです。
人影のない遺跡を道なりに歩いてみました。


荒神山が遠くに見えます。
多分、当時もあの山は聖地だったのだと思います。
古墳が集まっていますから。


田んぼの真ん中にこの遺跡はあります。
もし田んぼをひっくり返すといろいろと発見があるかもしれません。
この国の住人はどんな人々だったのでしょうか?
何か想像できる手がかりはないのでしょうか?
一つは、荒神山との繋がりが見えるので同じ信仰を持った人々がいたのでは?
という想像もできるのですが、なかなか僕の頭では結論は出ません。
そして、万が一、そのヒントが見つからないかと今回の散策は始まりました。
つづく
昨年は、一度も更新できませんでした。
にもかかわらず、毎日閲覧者が複数来られていることに大変うれしく感じております。
しかしながら、そういった読者の期待に応えられずに一年が過ぎた次第です。
いくつか興味を覚えた地があり、地図を用意していたもののなかなかタイミングが合いませんでした。
そんな中、昨日はとても良い天気に恵まれたので、その地図を出してきて家を飛び出しました。
行く先は、稲枝です。
では、久しぶりに散策の記録を報告させていただきます。
ただ、あまりキーボードを叩く余裕がないので、更新はゆっくりになると思います。
そして、かの地は思っていたより難しいところでした。
なかなか、まとめることができない報告になるかと思いますが、ご容赦願います。
さて、昨年あるニュースが記事になりました。
「滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、全体の重さは計約6キロに上るという。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。国内には当時、製鉄技術がなく、鉄の延べ板を朝鮮半島から取り寄せ、武器や農具、工具を造っていたと考えられる。
一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、より大規模な同時代の建物跡が確認されている。
「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、もとは「百余国」あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と伝えている。福永伸哉・大阪大教授(日本考古学)は「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語ると共に日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」と話す。」
毎日新聞2016年10月17日の記事です。
要するに、邪馬台国の時代に近江に大きな国が存在していたということです。
近江には、他に、邪馬台国近江説があるくらい大きな遺跡が見つかっております。
邪馬台国ではないにせよ、有力な国が存在していたことは間違いなさそうです。
稲部遺跡は、JR稲枝駅から歩いてすぐの場所にあります。

(地図は、平成28年度「稲部遺跡発掘調査現地説明会」より転載)
駅をおりても田園が広がる地区ですが、ここに弥生時代の大きな国が存在し人々が生活していたことになります。
駅前は、新しい住宅地に変化してきております。
元は田畑だったのを開拓して住宅地になってきているようでした。
遠くに荒神山が見えるのが印象的でした。
この稲枝地区の遺跡について彦根市埋蔵文化財報告書から一部抜粋解説しておくと以下のとうりです。
「稲枝地区の遺跡を見ると、山腹および山麓に立地するもの、河り|1自然提防上に立地するもの、沖積地の微高地上に立地するものの3タイプに大きく分けられる。
このうち、弥生時代の遺跡として知られているものは、曽根沼遺跡・稲里遺跡・上岡部B遺跡・金田遺跡等沖積地の微高地上に立地するものである。
古墳時代の遺跡は、集落跡と考えられるものは弥生時代の遺跡と同様の立地を示し、ほとんど弥生時代の遺跡と複合していると考えられる。また、古墳は大部分が荒神山とその周辺に集中し、平地に立地するものは、出路遺跡・狐塚遺跡等が知られている。奈良時代については、東大寺荘園絵図で知られる覇流荘と言われる曽根沼遺跡がある。仏教関係の遺跡は、自鳳時代の寺院跡は複弁蓮華文軒丸瓦等古瓦の出土が知られる岡部町の屋中寺廃寺と普光寺町の普光寺廃寺が有り、奈良時代から平安時代にかけてのものは、行基創建と伝えられる延寿寺遺跡や平安時代初期創建と言われる国昌寺遺跡0他に宝山寺遺跡等があげられる。
中・近世の城館跡としては、高野瀬隆重築城と伝えられる肥田町肥田城遺跡やこの肥田城遺跡に属すると言われる三津町越川城遺跡があり、また、三津屋町三津屋城遺跡が上げられる。」
以上、ここの調査はまだまだ未開のようであり、これから大きな発見があるかもしれません。
はっきりした遺跡の場所は把握していなかったのですが、少し歩いているとすぐにわかりました。
今も発掘調査は続いているのでしょうか・・・
でも、今はお正月でお休みです。
人影のない遺跡を道なりに歩いてみました。
荒神山が遠くに見えます。
多分、当時もあの山は聖地だったのだと思います。
古墳が集まっていますから。
田んぼの真ん中にこの遺跡はあります。
もし田んぼをひっくり返すといろいろと発見があるかもしれません。
この国の住人はどんな人々だったのでしょうか?
何か想像できる手がかりはないのでしょうか?
一つは、荒神山との繋がりが見えるので同じ信仰を持った人々がいたのでは?
という想像もできるのですが、なかなか僕の頭では結論は出ません。
そして、万が一、そのヒントが見つからないかと今回の散策は始まりました。
つづく