2017年03月05日    稲枝・豊郷散策6


前回からの続きです。

阿自岐神社をあとにして、近江鉄道尼子駅へと向かいます。
稲枝・豊郷散策6

駅の位置をはっきり把握していなかったので、とりあえず線路と並行に歩いて駅を探すことにしました。
なんせ、周りは田んぼばかりで見晴らしは良いのです。
稲枝・豊郷散策6
後ろに見えるのはたぶん、鈴鹿山脈でしょうか?

道中、いちご園がありました。
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それから鍼灸、マッサージ処も。
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久しぶりのウォーキングで足はけっこう悲鳴をあげています。
マッサージで癒してやりたいところですが。
お正月でお休みです。


ようやく駅にたどり着きました。
稲枝・豊郷散策6

時刻表を見るとしばらく電車は来ません。
40分ほど待ち時間があるので、もう一社参詣することにしました。


ところで、尼子の地ですが・・・
稲枝・豊郷散策6
尼子というと、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めた大名尼子氏がいます。
京極氏というと近江源氏の流れですが、出雲源氏はこの近江源氏がら分かれています。
尼子氏もまた近江源氏から出雲へ移ったわけですが、近江と出雲はなんらかの縁で繋がっています。

さて、この尼子氏は京極高久が甲良庄尼子郷を受領し尼子性を名のったのが始まりです。
つまり、尼子氏以前に尼子という地名は存在していました。
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では、尼子の由来はというと、ネット情報では、
「尼子氏の始祖が天女との間に子供をもうけ、やがて子供は天女の子供という意味から、天子(あまこ)という姓を名乗るようになった。
しかし京にいる天皇と同じ字は恐れ多いと、読み方はそのままに尼子という字に改めた。」
という伝説があるようですが、ご当地の説明では、天武天皇の時代にその妃であり、高市皇子の生母である尼子姫がこの地に住んだことが由来とされています。

天武天皇といえば大海人皇子と呼ばれていましたが、尼子姫も海子姫なのかもしれないですね。
この夫婦は海人族に関係の深いことがわかります。
尼子姫の父は、宗形 徳善(むなかた の とくぜん)という宗像大社の大宮司家を中核とする宗形君ですが、宗像氏は、大国主命を祖とする三輪氏の一族で阿田加多須命の子孫といわれています。

やはり古代より出雲と近江は関係が深かったように思います。


尼子駅から10分ほど歩くと甲良神社が鎮座しております。
電車を待つ時間にこの甲良神社をお参りすることにしました。

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ご祭神は、武内宿禰命
配祀神に田心姫命 湍津姫命 市杵嶋姫命。いわゆる宗像三女神です。
尼子姫の実家の神ということですね。

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ご由緒によると
「主祭神の鎮座は社記によると、筑後国の高良大社より勧請されたものといわれるが、その年代は不詳である。又相殿の三女神については、「社伝」によれば、「納胸形君徳善女尼子姫」 此尼子娘後に斯所に住玉ひて三女神を祭り給ひし」とあり、また社記に「治暦年中より甲良荘の総社と成りける」とあることから治暦以前に勧請されたもので、その頃から甲良荘33ヶ村の総社として厚く信仰されていた。」

起源は、尼子姫がこの地に訪れた際に筑後の高良大社から勧請したとされています。
宗像大社と同じ福岡県に鎮座している高良大社から勧請しています。
高良大社の高良玉垂命 (こうらたまたれのみこと)を祀ることから、ここは甲良(こうら)と呼ばれたということでしょうか・・・
高良玉垂命とは、甲良神社の武内宿禰のことだとされています。

地理的に見ると尼子郷が位置しているのは甲良荘でした。そして今の地名で見ると、甲良町、隣の多賀町、豊郷町をあわせて犬上郡と言います。
犬上の由来は、「ヤマトタケルノミコトの子、稲依別王(イナヨリワケノミコ)が犬上君、建部君二つの族の始祖」であり、犬上君がこの地域一帯を統率者であったことからきています。


前回に書いた豊郷の阿自岐神社は、景行天皇43年犬上君により創立という伝わっています。
景行天皇は、ヤマトタケルの父ですが、ヤマトタケルは創作だと考えられているので、犬上郡一帯が開かれたのは、景行天皇(ヤマトタケル)時代またはその子の時代だと考えて良さそうです。

阿自岐神社の祭神は、味耜高彦根神・道主貴神・天児屋根神ほか3神ですが、道主貴神とは、宗像三女神のことです。
宗像三女神のタギイヒメは、アジスキタカヒコネの母です。
この母子神ですが、アジスキタカヒコネは迦毛大御神(かものおおみかみ)と天照大御神と同じく大御神の名をもち、道主貴神もまた大霊留女貴と同じく貴(ムチ)という高い神の称号を持っています。
つまり、高貴な母子神ということです。


甲良町のウィキによると
「桂城神社(甲良町下之郷)の名や甲良神社(甲良町尼子)の祭神が武内宿禰であることから、古代は葛城氏の支配地であった。その後、犬上氏の領地となる。」
この地は、葛城氏とも深い繋がりがあるようです。
アジスキタカヒコネが、葛城古道に鎮座する高鴨神社のご祭神なのも、葛城氏がここに移住してきた証なのかもしれません。

尼子を初め、豊郷、犬上の地は、海人族と鴨族の絡み合った地なのだと思いました。


少し長くなりますが、尼子や甲良と葛城氏と関係を考えみたいと思います。
興味がなければ読み飛ばしてください。

「大昔、奈良に大和朝廷があったころ、その大和朝廷と並び立つぐらい大きな力をもった豪族「葛城族」がありました。この葛城族は、雄略天皇に攻め滅ぼされ、各地に逃げました。その一族の葛城氏は近江の国へ逃れました。
多賀や甲良、豊郷地区の神社に祭られている神様はどれも葛城氏と関係があるところから、その一族が移り住んだのではないかと考える人もいます。
 なお、葛城氏とは「スクナビコナ」のことであり、朝鮮からの渡来者と考える学者がいます。」
こちらのHPより抜粋しました。
http://shimonogo.under.jp/rekisi/smonogorekisi/2.html

つまり葛城氏は、雄略天皇の時代に甲良荘に落ち延びたということです。
上記のように葛城氏がスクナヒコナかどうかはわかりませんが、葛城氏が渡来系だという考えはあるようです。
例えば、葛城氏の祖、葛城襲津彦の記録が半島での行動が殆どであることから、葛城氏は、朝鮮半島における軍事行動や外交交渉を担っていた一族だったと思われています。
さらに発展させて葛城氏は、加羅国の国王家一族だと考える人もネット上にはいるようです。

しかし、こんな記録があります。
襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条には、『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介されています。この「沙至比跪」と襲津彦を同一人物と考えられているので、つまり葛城襲津彦は、武力によって加羅を攻め滅ぼし、その後そこを統治したのではないかと想像できます。


天皇と並ぶ権力を持っていた葛城氏ですが、葛城襲津彦の孫である葛城円大臣が、
「安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)」

と、葛城氏は衰退します。
葛城円の娘は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)といい雄略天皇の后になったいるのですが、名が韓姫というのは、なんらか半島人と関係が深そうです。
もしかすると襲津彦以後、この血筋に加羅人の血が混じった可能性も考えられます。



さて、葛城襲津彦の父は武内宿禰です。
武内宿禰の素性をウィキで見ると、
「『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。
孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。
なお、応神天皇紀では弟(母は不明)として甘美内宿禰の名が見える。

『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。
同書においては、異母兄弟(長幼不詳)として味師内宿禰(甘美内宿禰)の名が見える。」

天皇家の血筋だというのはわかりますが、もう一つイメージがわきません。

これを出雲王家の伝承でみると、いろいろと今回の考察も筋が見えるように思います。
伝承では、武内宿禰が長寿なのは、何代かの記録を武内宿禰の名で記録したからであり、宿禰とは物部家に関係のある敬称であり個人名ではないということです。
一般に、武内宿禰の名で知られる人は、武内大田根と言いました。


武内家の起源は、初代大和王・ムラクモの弟、高倉下を始祖とします。
西出雲王・神門臣家の大屋姫は、五十猛命の妻となり高倉下を生み、その子孫の家は、紀伊国造家となりました。
その子孫の山下陰姫は、磯城王朝のクニクル大王(孝元天皇)の御子、彦布都押之信(ヒコフツオシノマコト)と結婚しました。
その子が、武内大田根でした。


出雲や大和にルーツを持つ武内大田根でしたが、父方の祖母(熊野系物部氏のイカガシコメ姫)が物部氏だったので当初は九州王朝に組みしました。
ここが、ややこしいところです。
最初、九州王朝のために働くも、後に大和側に寝返り、そのため敗北し逃れるのです。
この敗走を手助けしたのが東出雲王家だったのです。


話は、甲良荘尼子郷の尼子姫に移します。
尼子姫は、九州宗像家の娘で天武天皇に嫁ぎます。
その尼子姫が高良大社から勧請し、甲良神社に武内宿禰を祀りました。

尼子姫の血脈を遡ると、宗像君の祖先は、「大國主命六世孫吾田片隅之後也」と伝わっています。

この宗像家のことを出雲王家の伝承では、
オオナモチの六代目オミツヌ(神門臣家の出身)の孫アタカタスが筑前国に行き、宗形家を起こした。

アタカタスが、宗像三姉妹を育てたのは八代オオナモチ(八千矛王=一般的に大国主命の名で知られる)の時代の少し前である。

田心姫は七代オオナモチ、天之冬衣の后となりヤエナミツミ(八重波津身=コトシロヌシ)を産んだ。
コトシロヌシは、摂津国三島の三島家より玉櫛姫(生玉依姫)を后に迎えられた。
玉櫛姫は、クシヒカタ、タタライスズ姫、カワマタ姫を生んだ。

八代オオナモチである神門臣家の八千矛の元には、多伎津姫(タキツ)が后として迎えら、その子にアジスキタカヒコネが生まれる。

とあり、いずれにしても宗像家の血脈は西出雲王家に繋がり、この血は別に出雲でアジスキタカヒコネに続いています。


尼子姫の血を遡ると西出雲王家に繋がり、ここから同じ祖先をもつアジスキタカヒコネの血脈は葛城の高鴨に流れていきます。

阿自岐(アジキ)神社のご祭神が味耜高彦根神と道主貴神(宗像三女神)なのも血脈からも理解できます。
阿自岐神社は景行天皇43年犬上君により創立と伝わっています。
つまり、尼子姫が宗像より尼子に移住する以前から、尼子の地は、西出雲王家由来の地だったということがわかります。
そして、この西出雲王家の血は、西出雲王家の大屋姫と五十猛の間の子、高倉下の子孫である武内宿禰と繋がってくるのです。

そんなわけで、葛城氏が雄略天皇に追われ甲良荘を頼ったのもこの血脈故かも知れません。



さて、難しい話はこれくらいで、本殿をお参りしましょう。
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りっぱな拝殿の後ろに本殿が祀られています。
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そして、摂社、末社です。
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火伏神社、 稲荷神社、 禮敬大明神らが祀られているようです。

こんなものもありました。
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甲良石というようです。
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武内宿禰の奥津城といわれているそうです。
奥津城とは、奥都城や奥城とも書かれますが、神道式の墓のことを言うようです。

こちらのブログでは、
「この石は頭だけでその底にどれだけ埋まっているのかわからない巨石といわれ、この石に触れると災いや不思議なことが起こるともいわれています。」 参照:「巨石マップ」
と紹介されています。


そろそろ電車がくる頃なので、尼子駅に戻ることにしました。
すっかり昼食も食べそびれていたので、近くのコンビニでシュークリームを買って、ほうばりながら駅へと向かいました。

帰りは、尼子駅から彦根に出て、JRに乗り換えて帰りました。
まだまだ、この地はわからないことが多いです。
最初の問題、稲部遺跡のヒントもつかめないままです。
また、いつかそんな謎も追ってみたいのですが、今はここまで。
帰ってゆっくりと休むことにします。

   終わり。



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Posted by 柚子木琴火 at 09:48 │Comments( 2 ) 街歩き 探訪 稲枝・豊郷 参詣
この記事へのコメント
ありがとうございました。
毎回色々と考えさせられますね。個人的な考えと並行したとしても柚子坊さんの記事は本当控えめですけど為になります。レベルの違いを毎回感じますね。
そう葛城と近江の接点です。
地形的にはお水がいっぱいの時は葛城は相当魅力ある地です、なので先住民は追われたら和歌山の方か近江しかないでしょう。大阪は色々な方がいるのもありなので。
その移動の中の葛藤の中に宗方系がいるのは確かですね。

道主さんって男かとイメージしていましたけどまさか宗像三姉妹とは思わずでした。ちょっと思うのが道なので道祖神系か妙見系の男性(尼子もはいるかな?)と同族の奥様が亡くなったあとの後妻さん系が宗像さんでは?とも。近江と関東、そして漆で岩手や布で福島とも関係ある一族が関係しそうに思います。こっちは出雲よりも越の方が接点強そうに思いますので。
葛城襲津彦さんは人間としての一番古い方と断定される方のようですからそこから人間なので色々あるでしょうね。外交官家系ですよね、当時は物々交換ですので物持たないと出来ないですし、頭もよかったとも。とっても気になる家系ですが情報がなさすぎです。円の付く息子さんは私も超好きなのでその方の実績がどうなのか?少なくても武内宿禰さんよりは考古学的物証でも信用出来る情報を得られる目印になると思います。女性とかも連れてきてますけど福島でお蚕さんの発展を支えた可能性も。百済よりはもっと昔ならば派遣された場所も外国ではなく日本だったかもしれませんよ。今後が楽しみですね。s6x3tq

そう福島に鎌足神社があって足尾社でわらじありましたよ、道真さんと大きな御幣の後ろにお名前がありました。百済だか渡来人と思われている鎌足ですけどなぜか東北や千葉、なんでなのでしょうね?
そうだ平安時代には岩手で浄法寺という地名の場所でお寺用の漆の道具作っていたらしいですし。東北は歴史が断片的に消えてるのでミステリアスですよ。平安時代に相当広範囲で水運使っていそうです。近江には通ってるのはルート検索でも現代でも明らかですので、近江の役割は大きいです。
Posted by りひと at 2017年04月17日 12:04
りひとさん

こんにちは!
なかなかお返事できなくてすみません。
このブログは、何気ない地元に目を向けて、日常とは違った目線でその地の過去と向き合えたら良いなと思い更新しております。

旅のガイドとしては不十分ですが、散策の友になれれば嬉しいと思います。
そして、その散策の友は、自分でそれぞれが思索や空想といったものを頼りにするならとても楽しい散策になると思っています。
そのためのお手本となれば幸いです。

なので、歴史をどう見るかはそれぞれの自由であって良いと思います。
ただ、できればそこに資料や伝承、考古学的な物証があれば心強いですね。
あとは、その隙間を自由にイメージを膨らませて歴史を眺められれば素敵です。

多分、今自分達が想像している世界より、もっと古代はアクティブでイメージを覆される世界だったと思います。

ところで、藤原氏の氏神は建甕槌命ですが、これは三輪氏の大田田根子の先祖でもある建甕尻(建甕槌命の別名)だという説があります。
つまり、藤原氏の血は、大和の磯城登美家に繋がっているわけです。
もし、そうなら、登美家のナガスネヒコの子孫は、東北に逃れているので、彼らが密かに、鎌足を祀った可能性はあると思います。
Posted by 柚子木琴火柚子木琴火 at 2017年04月23日 09:28
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