手原散策2

柚子木琴火

2015年05月23日 13:51


前回からの続きです。

三輪神社には、神主さんが在住しておりません。
そこから20分ほど歩いた距離に鎮座する高野神社から神主さんが来られるとある本で読みました。
では、その高野神社まで歩いてみることにしました。

歩いていると三上山の存在が印象的です。


整備された川も流れています。


三上山の裾には野洲川という大きな川が流れていますが、
古代の社会では、聖なる神奈備山と川はセットだったように思います。
三上山を見ていつも思うのは、エジプトのギザのピラミッドとナイル川です。

近江でも豪族が住んだ地は、細かい川が水路のように張り巡らされているような感じを受けます。
特に、経験からは、物部氏の澄んだ水口や守山なんかがそう感じました。


高野神社の位置は、事前に地図で確認しておいたのですが、この散策には地図を持ってきませんでした。
そこで、だいたいの方角の検討をつけると、久しぶりに神社センサーを起動させました。
神社センサーといってもスマホのアプリでも、特別な能力でもありません。
ただ、こっちにありそうだな・・・といった雰囲気を感じとる、いわば今までの経験からくる一種の感覚です。
神様との縁というのもあるようで、ダメなときは、地図を見ながら何度探しても神社が見つからない時があります。逆に、縁のある時は、突然目の前に神社が現れる時があります。

今回は、縁があったようです。
一度は、川に沿って歩いたため、道から外れかけたのですが、途中でこれは違うな・・・と引き換えし、別の道を歩きました。
しばらくすると鎮守の森が見えました。
これが一番の目印です。森や林は、遠くから確認できるし、これがあると神社がある確率が高いです。
その森を目指して近づいていくと、
I GOT IT !
ありました。高野神社



想像していたより立派で大きな神社でした。
真っ直ぐな参道を進みます。


そして、山門を潜ります。



ご祭神は、 大名草彦命(第11代垂仁天皇の御代)

式内社で栗田八座の一社です。
「社伝によると、天智天皇の御代以降、高野造なる人がこの地一帯を開墾開発し、高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間(701~714)我が国で最初に鋳造された「和同開珎」の鋳師(鋳銭司)高野宿禰道経一族が住んだことは有名であり、それらの人々の氏神として、祖先を祀ったのが当社である。
 中世よりは、通称「由紀志呂宮(ゆきしろのみや)」又「由岐宮(ゆきのみや)」として尊崇されて来た。これは大同元年(806)大嘗祭の悠紀方として新稲を進納したことに由来する。・・・・」



滋賀県神社庁のHPで高野神社を検索すると、長浜市高月町高野の高野神社もヒットします。
ここもご祭神は、大名草彦命を祀っており、高野氏の祖神が大名草彦命だということがわかります。
大名草彦命は『国造次第』に紀伊国の第5代国造として見える大名草比古(命)と思われこの一族は紀伊国出身だということになります。紀伊には、神武天皇と戦った名草戸畔がいましたが、紀伊の名草地方の出身なのは間違いなさそうです。

『先代旧事本紀』天神本紀によれば高天原から葦原中国へ降臨する事となった饒速日尊の護衛として付き従った32神の1柱に天道根命がおり、彼は、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられたようです。大名草彦はこの後裔にあるようです。

ニギハヤヒを祖とする物部氏は、野洲川の少し上流、水口に住んでいましたし、ここの少し下流の守山にも住んでいました。
そういった関係で高野氏がこの野洲川の畔に土地を開墾したのかもしれないと想像できます。


悠紀に関しては、
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官司の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。
悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。
悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国(現在の京都府、奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もない。
宇多天皇以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。

大嘗祭(だいじょうさい)とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭のことで、
新天皇の最初の大仕事だと言えそうですが、この祭りに使われる稲を駆り出される田がここにあったことになります。
これを由紀志呂というようですが、印岐志呂神社というのが草津に鎮座しております。
イキシロと読みますが、これはユキシロのことだとされています。
いずれにせよ、近江国が悠紀に定めされたことに関係すると思います。


さて、本殿にお参りします。


立派な社殿です。

その横にこれも境内社にしては大きめのお社が並んでいます。


八重釜神社と敏鎌神社です。
「境内摂社として、土・水神を祀る「敏鎌社」(二の宮)「八重釜社」(三の宮)があり、共に農耕にかかわる大自然の神々で、本殿、二の宮、三ノ宮は何れも八角柱状の神木を御神体をし、御柱の信仰をとどめるものである。」







ところで、
大祓詞の中に
「大津辺に居る大船を 舳解放艫解放て 大海原に押放事之如く 
彼方之繁木が本を焼鎌の敏鎌以て打掃事之如く遺る罪は不在と祓賜ひ清賜事を 
高山之末短山之末より佐久那太理に落多支都速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云神大海原に持出なむ 如此持出往ば荒塩之塩の八百道の八塩道之塩の八百会に坐す速開都比咩と云神・・・・・」

と有名な瀬織津姫を初めとする祓戸四神の説明の一節の直前に焼鎌、敏鎌という言葉が出てきます。
「彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く」とは、向こうの方の繁った木を、焼きを入れた敏鎌で打ち掃うことだそうです。
(大祓詞の解釈と信仰 P69参照)

この大祓詞の元、中臣祓詞が天智天皇時代に作られた大津の佐久奈度神社には、本殿の横に摂社として焼鎌社(天御柱大神)と敏鎌社(国御柱大神)が祀られております。
この二柱は、龍田の風神と呼ばれる奈良の龍田大社のご祭神と同じ神様で、伊勢下宮の風宮の神様でもあります。


もし、この高野神社の八重釜社と敏鎌社が、焼鎌社と敏鎌社と同じであるなら、
奇妙にも風神ではなく、水と土の神様になっております。
社伝には、天智天皇時代に高野造がこの土地を開墾したそうですから、佐久奈度神社の創建と同じ天智時代になります。
高野神社の創建が後の世だとしても、それほど後にはならないだろうから不思議な感じがします。


焼鎌社と敏鎌社の神のモデルは他にあるのではないか・・・
ついついそんなことを考えてしまいます。
特に八重という文字が使われていること、釜と鎌が区別されていること。
これらは、出雲の消された神に繋がるような気がします。


他にも稲荷神社 大神宮 祖霊社といった境内社が祀られています。





お参りを済ませると、もと来た手原駅に戻ることにしました。
やはり三上山が印象的です。


他にも名前は確認できておりませんが、聖地と思われる山々に囲まれていました。
多分、石部散策をした時にみえた山々だと思います。





わずか半日程度のプチ散策でしたが、なかなかに意味深い巡礼となりました。
帰りは、手原駅近くの中華屋さんで昼食をとりました。
ここがまた、安いお店だったのです。
では、このへんで。。。

            終わり



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