坂本プチ散策2
前回からの続きです。
ちょうど桜が咲き始めてきたところでした。
街路樹のごとく何本かの桜に花がついています。
少し目を引いたのは、そんな桜の木の下にお地蔵さまが祀られていることでした。
少し距離を開いて、また桜の木にお地蔵さまが祀られていました。
前のは、道路側を向いていましたが、今度のは、道路と反対側の田んぼの方を向いていました。
不思議だったのは、このお地蔵さまは、胸から下が埋もれていたのです。
もしかすると、廃仏毀釈の折に捨てられた仏様を祀っているのかもしれないと思いました。
坂本も廃仏毀釈の影響は強かったようです。
よく見ると、僕はその祀り方からお地蔵さまと思っていましたが、別の石仏様かもしれません。
頭の形が地蔵さまではないような・・・如来ぽく感じます。
神社巡りをしていると、多くの場合、明治の宗教改革の爪痕に出会います。
今、我々が見る神道の形は、明治時代に作り変えられたもので、政治的思惑が根本にあります。
それ以前の信仰とは異なっている場合があります。
ここでは、多くを語るつもりはないので、
次に行きましょう。
なにげに西光寺というお寺がありました。
由緒あるお寺のようです。
この道をまっすぐ進むと、すぐに琵琶湖畔に出ます。
船着場が近くにあったようです。
今は、普通のお家といった感じのお寺です。
少し進むと、道の両脇に神社があります。
僕は、二度目の来訪です。
まず、酒井神社にお参りしました。
ご祭神は、大山咋神です。
坂本、日吉大社の祭神ですが、この神は京都の松尾大社のご祭神でもあります。
松尾大社は、酒造りに関わっていた秦氏の氏神でもあり、この地が酒の泉が湧いたという伝えから、大山咋神が祀られているのだと想像しました。
「社伝によれば、その創建は、弘仁元年(810)、下阪本の梵音堂(下阪本四丁目)にある磊 (大きな石)から酒が涌きだし、その酒の精は大山咋神であるとの神告をうけたため、人々は社を建てて磊を神体として祀るようになったといわれます。この場所は、旧社地として今も残っております。元亀二年(1571)、織田信長の比叡山焼き打ちによって罹災しましたが、天正十六年(1588)に再建され、 現在の本殿は、棟札によって、元和六年(1620)に広島藩主浅野長晟によって建立されたこ とが知られます。現在の社地に移されたのもこの時であります。 本殿は、一間社流造で屋根は檜皮葺、滋賀県指定文化財。 また、酒井神社では、正月六日から八日まで五穀豊穣を願う「おこぼさん」がおこなわれてお り、大津市指定の無形民俗文化財となっています。」(公式HPより)
本殿です。
その横の境内社
この神社には面白い石碑が立っています。
僕は、琵琶湖の水が溢れるなんてことはないと思っていたのですが、
ここに来て、それは間違いであり、昔はわりと溢れていたことがあったようです。
しかも、こんなに浸水していたとは・・・
石碑の文字の上部分の線まで水が来ていたようです。
滋賀県の川はすべて琵琶湖に流れ込みます。しかし琵琶湖から流れ出る川は瀬田川一本です。
昔は、瀬田川の川幅が狭く、入ってくる水量より流れ出る水路の出口が狭くて溢れることがあったようです。
今は、その川幅を掘削し広げていますので、溢れることはなくなりました。
瀬田川の観光船に一番丸というのがあるのですが、
それに乗ると、昔は川幅が狭かったというアナウンスが流れて広げられた場所を紹介されます。
次に道路を隔てた向かいの神社にお参りしました。
両社神社です。
ご祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 です。
「創立は、元仁年間(1224~25)、高穴穂神社の祭神を酒井神社の旧境内に勧請したことにはじまるという。・・・・」
高穴穂神社とは、坂本の近く穴太にある神社で、
「祭神景行天皇は即位五十八年近江滋賀に遷都され高穴穂宮と称したが、在位三年で崩御(百大歳)された。
次帝成務天皇は先帝の御遺徳を追頌され、高穴穂宮の内に祀り天徳前王社また前王宮と称した、これが当社の発祥と伝えられる。」
といった由緒があります。
近江は、天智天皇の大津京や紫香楽京といった都は有名ですが、他に前にここでも紹介した保良宮や、この高穴穂宮があります。
その中でも、高穴穂宮はヤマトタケルの父である景行天皇の時代ですから、四つのうちの最古になります。
ただ、この都は伝説上という説もありますが・・・
この景行天皇の子に成務天皇がおり、この天皇の時代に各地の国造が多く配置されたといいますから、国としての支配制度が確立しだした時代なのかもしれないですね。
その中心に高穴穂宮があった可能性があると思います。
さて、その高穴穂神社から勧請された神が伊邪那岐命、伊邪那美命です。
この両社神社の神紋は兎なのですが、
兎は、伊邪那岐命の使いとされており、坂本より南より、大津京に近い三井寺に三尾神社が鎮座しております。
ここには、こんな話が残されています。
「「寺門伝記」補録第五三尾明神祠に三尾明神について書かれている。
三尾明神はその昔伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神となられた。
この神は常に三つの腰帯をつけておられた。ある時その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となられ、それぞれ三ヶ所で出現された。
最初の出現は赤尾神で、上の三尾(琴尾山 山上の祠)と称されたが、出現の時は太古卯年の卯月卯日卯の刻というだけで何の時代の何年という事が不明である。
第二の出現は白尾神で、場所は現在の三尾神社(筒井の祠)とされている。出現の時は文武天皇の大宝年間の夏というだけで何年という事が知られていない。
第三の出現が黒尾神で鹿関の地でこの神のみが称徳天皇の神護景雲三年三月十四日の出現とされている。
三神とも御本体は一つで伊弉諾尊となっている。之を上の三尾・中の三尾・下の三尾と称されていた。」
イザナギ命は、卯年の卯月卯日卯の刻に降臨されたということで、三尾神社の神紋は、「真向きのうさぎ 」であり、この神社は、兎の神社として卯年には、多くの人が初詣に訪れます。
そして、両社神社も兎の神社のようです。
古代の大津市は、もしかすると伊邪那岐命の地だったのかも・・・
もしかすると、伊邪那岐命に象徴されるある神々の信仰の土地がベースにあるのでは・・・という気がします。
では、本殿と境内社です。
両社神社を出て、最後にもう一社、今回のお目当ての神社へ向かいました。
その報告は次回に回して、今回はここまでにしておきます。
つづく
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