2014年05月02日 保良宮を求めて
先日、大津市歴史博物館主催の「保良宮と近江国府」という講座に参加してきました。
講座の内容は、七色堂にアップしております。
近江国府跡は以前に訪れたことがあるので、保良宮跡へ行ってみようと考えました。
しかし、この保良宮・・・まだ、どこにあったのかはっきりとわかっていないのです。
とは言え、その遺跡だとされているものは残っており、そこを巡ってみようと思います。
ちょうど、これは僕の地元の地域なので気軽に歩ける距離なのです。
GW中の散策を計画していたのですが、
昨日、散髪に行ったついでに一つのポイントが近くにあるので足を向けてみました。
この日の最初のポイントは、将軍塚です。
大津市美崎町。国道一号線沿いにあるスーパーマツヤの裏辺りにあると情報を得て行ってみました。
住宅地の中、住居に囲まれた場所にありました。
解りにくいです。
久しぶりの散策なのか感も鈍り、かなり彷徨いました。
これが、将軍塚です。
将軍塚は、壬申の乱の敗者大友皇子側の将軍が葬られた場所だと伝えられています。
近くには、茶臼山という山もありそこは、大友皇子とその侍臣および大友皇子の子、大友与太王の葬り塚があります。
しかし、大友皇子の時代は保良宮より前です。
壬申の乱、672年
保良宮、761年
この将軍塚がなぜ保良宮と関係しているのかというと・・・
草ぼうぼうの塚には大きな石があって、それが保良宮の礎石だというのです。
このヘソのようにポッチリがある石がその礎石です。
このタイプはこの時代にしかみられないため、時代が特定できるそうです。
保良宮跡はまだ発掘できていませんが、礎石はいくつか見つかっています。
今回は、その礎石を巡ってみることにしました。
美崎町から真南の国分町へ下っていきます。
西側は山です。東側は琵琶湖になるのですが、
この東側のJR石山駅辺りが保良宮があったのではないか・・・と考えられているようです。
もしかすると、その保良宮の西の際に沿って歩いたことになるかもしれません。
ちょうど東レの敷地の間を通る形です。
今回は、地元ということと散髪屋の帰りということで、地図を持たずに歩きました。
方向感覚はありますが、さすがに迷います。
同じところを行ったり来たりしました。
松尾芭蕉の住んだ幻住庵を目印に向ったのは、近津尾神社です。
なんとなく見覚えのある道を歩いていると鳥居が見えました。
鳥居の横はバス亭になっています。
しかし、参道はすぐに途切れ住宅地の中・・・・
仕方なく、そのまま歩き進みました。
突き当たり、二つに道が分かれます。
幻住庵か太子堂か・・・?
幻住庵は行ったことがあるので、太子堂へ行ってみました。
太子堂は丘の上、結構急な階段を登ります。
久しぶりに心臓がバクバクしました。
「聖徳太子二歳像を安置する。この像は元享元年(1321年)法眼宗圓の作といい、もとは京都府八幡の石清水八幡宮に安置されていたもの。明治2年に神仏分離令により五代目真田武左衛門により国分に移された。」
登り道は少し鬱蒼としていましたが、
上は明るい場所でした。
見晴らしも良いです。
琵琶湖や対岸の三上山が見えます。
この眼下に保良宮は築かれていたのかもしれません。
もう散っていましたが、季節には桜も綺麗だと思います。
ピンクの花びらが地面を染めていました。
今は、藤の季節です。
太子堂から戻ると、
さて、近津尾神社はどこでしょう・・・?
また、鳥居まで戻り、うろちょろしていたのですが、
地元の方が居られたので尋ねると・・・
なんと、幻住庵と同じ場所にあるとか。。。
また、同じ道を戻りました。
幻住庵を目指し山の中を歩きました。
芭蕉が炊事に使った「とくとくの清水」は今も涌いています。
もうすこし上がると神社がありました。
思ったより立派な神社です。
御祭神は、誉田別尊です。
八幡さんで有名な応神天皇のことですね。
「明細書によると、創立年代は不詳であるが、石山寺記録中之巻三によると承安三年後白河院石山寺へ行幸された際、石山寺座主公祐僧都命を受けて勧請、石山寺祈願寺と奉崇すとある。」
後白河法皇が絡んでいるのですね。
そして石山寺と関係あるので立派なのかもしれませんね。
本殿の横には、境内社があります。
明治四十二年に合祀された国分新田の洞神社、雨壷神社です。
今回のお目当ては、この洞神社です。
洞は保良宮のホラからきているということです。
地名の名残です。
御祭神は、高龗神。山の水の神です。
雨壷神社は、天水分神。
いずれも水の神様です。
先ほどの「とくとくの清水」に見られるようにこの山は水が豊富なんですね。
社務所の前あたりから、さらに上にある幻住庵に続きます。
しかし、現在、災害のため公開中止となっていて入ることはできません。
山を降りると神社の表参道に出てきます。
こういうことになっていたのですね。
今回は、ほんとに無駄足が多いです。
ここから、次のポイントへ向うのですが、頭の中の地図が勘違いしており、随分と違う道を進んでしまいました。
明らかにおかしいので、さすがにスマホを取り出し場所を確認。
なんと、また同じ道を戻りました。
幻住庵の前の道を真っ直ぐ南に進めば良かっただけでした。
トホホ・・・です。
そのポイントもまた、見当違いを探して苦労しました。
場所は、道沿いの民家の角にありました。
「へそ石」といいます。
半分、地面に埋まった保良宮の礎石だそうです。
ただし、この石は使われなかったと考えられています。
この「へそ石」の向かい先ほどの幻住庵から続く山がありまして、
この山中にも礎石が転がっているそうです。
また、ここには保良宮跡の石碑が立っているそうですが、
この地に宮があったとは地形からも考えにくく、礎石の加工場か採掘場だった可能性があるようです。
残念ながら、山の中に入る道がわからずそこへは行きませんでした。
以下の画像は、滋賀県文化財保護協会さんのHPから転載させていただきます。
さて、お目当ては達成できました。
予定外に歩いたので足はクタクタです。
石山駅まで出て電車で帰宅することにしました。
その道中、もう一つ礎石がある場所があります。
北大路町の西方寺内です。
このお寺の釣鐘銅の石に礎石が使われてるとか・・・
残念ながら、お寺の門は閉まっていて勝手に入ることはできませんでした。
多分、この釣鐘の下にあるのかな?
見ることができないので、先ほどの滋賀県文化財保護協会さんのHPからまた転載させていただきます。
やはり、この出ベソの石が特徴なんですね。
もしかして、今日歩いた住宅の庭とか、林の中とかにしらずに置き去りにされていたら面白いな・・・
と、キョロキョロしがなら歩きました。
久しぶりの散策はクタクタです。
いつものように酒場へ出向く力は残っていませんでした。
おわり